小説

『恋と影』和織(『死と影』)

「・・・・・いえ、多分私とあなたの差って、ものすごいんだろうなと思ったの」
「ものすごい?」
 僕がそう言って目を見開くと、ママはニヤっと笑って、テーブル席の客にコーヒーを注ぎに行った。そんな姉弟みたいな会話をしに店へ行くのが、その頃の僕の一番の楽しみだった。あの店が好きだった。だから、ときどき見かける、「彼」のことがすごく気になっていた。入り口に一番近い場所が指定席で、店にいる間ずっと、一人でパソコンと向かい合ってる客だ。色が白くて、痩せていて、うんざりが顔に張り付いたみたいに、いつ見ても同じ表情をしている。その男が店で金を払うのを、僕は一度も見たことがなかった。ママが彼に対して向ける表情も、明らかに、他の客へ対するものとは異なっていた。
「ねぇ、あの、いつも入り口のところに座る人、あの人はオーナーか何かなの?」
 ある雨の日、僕はママにそう訊いてみた。雨の日なら、立ち入ったことを訊いてみてもいいかとずっと思っていて、ひそかに機会を窺っていた。そのとき、店に客は僕一人だった。何せ、わかりにくい路地にあるこの店は、雨の日は客が数人しか入らないこともあるくらいに、暇なのだ。こういうことがあると、いかにほとんどの客が、ママ目当ての常連なのかというのがわかる。
「彼はねぇ・・・」
 ママは少し考えるふりをしてから、諦めたように笑って、肩を竦めて見せた。
「物書きなのよ。収入が不定期でね、でも、お代をもらってない訳じゃないの。ツケでね、あるときにはちゃんと払ってもらってる」
「彼氏、なの?」
「うーん、まぁ・・・表現しづらいけど、要するに、私の好きな人なの。関係はある、としか言えないかな。あの人の為に、この店を始めたんだから」
「え?」
 驚いている僕を見て、ママは首を傾げた。
「本当よ。本当に、そうなの」
「だって、え、あの人だけの、為にってこと?」
「そう。彼が離婚したって聞いたから、私も夫と別れて、こっちに来たの。で、彼がこの近くに住んでるから、ここにお店を開いたの。お金のことを気にしなければ、いつでも来てもらえるでしょ。そういう場所が、あの人に必要だと思ったから。でもまぁ、オーナーみたいなもんなのかもね。あの人がいなかったら、この店はない訳だから」
 作業しながら、ママはいつもと変わらない口調でそう話した。それは何でもないことで、自分の意向で、好きにやっているのだ、ということみたいだった。でも僕は、次第にモヤモヤしてきた。
「好きってだけで、向こうの都合に合わせて、いいように、されていいの?」
 我ながら子供っぽいと自覚しながらも、ついそんな言葉を放ってしまった。
「いいようにしているのは、私なの。それしか、方法がないこともあるの」

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