小説

『恋と影』和織(『死と影』)

「やっぱり、恋をしているって、すごいわね」
 ため息と一緒に、ママが言った。
「そう?」
 僕は気のない返事をした。
「だって、もう二十年も続いてたのよ。彼が彼女を愛している限り、私の気持ちは変わらなかったのに、それが、一瞬で消えちゃったの」
 僕はママを見た。ママを見て、彼女の口にしたことを頭の中で繰り返した。訳がわからず、返す言葉を見つけられずにいる僕を、ママは面白そうに見つめて、酔ったように話を続ける。
「恋をしなくてよくなって、あの人、心底ほっとしてるのよ。でも好きっていうのは、相手がいなくなったからって、止められるものじゃないでしょう?だからきっと、彼が行きたい場所に、彼女が先に逝っちゃったてことなんだと思う。彼きっと、近いうちに死んじゃうんじゃないかな」
 ママはカウンターに両肘をついて、僕に顔を近づけてきた。
「私ね、わかったの。人の死って、悲しいことじゃないのね。だって彼が死ぬことより、彼が彼女の心を失ったときのことを想像する方が、よっぽど悲しいもん」
 コーヒーを飲もう、と思った。でも、それがなかなか、体に伝わらない。手が動かせなかった。コーヒーの湯気が頬を撫でるのに、何の香りもしなかった。
「誰のことも愛していない人って、なんでもないわね」
 彼女がそう呟くと、ボトッ、と、頭に何かが落ちたような感覚がした。その呟きには、どんな感情も含まれていなかった。そういう声を、僕は初めて聞いた。
「・・・・・ママは、もう」
 そう言いかけた僕の頬を、ママが細い指でツンツンした。それは、僕らの最初で最後の、たった一度の「触れ合い」と呼べる動作だった。
「恋愛の割合って、あなたくらいがちょうどいいのかも」
 彼女が笑ってそう言ったとき、僕の気持ちは、恋になることを諦めたのだと思う。
 ゆっくり、ため息をついた。投影を止め、僕は過去を引き払って、それをただの駐輪場に戻した。もう、ここへは二度と来ないだろう。そう思って振り向くとき、ママが恋を失ったときのことを、一瞬、想像した。

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