小説

『恋と影』和織(『死と影』)

 あの店がもう存在しないと知っていても、訪れてみて、駐輪場になっているのを目にすると、やはり少し切ない気持ちになった。仕事でこの付近に出向くことがなければ、きっと二度とここへ来ることはなかっただろう。そうやって避けていなければいけないくらいに、一度蓋を開けると、止めどなく溢れてしまうような記憶だったのだ。学生の頃、しょっちゅう通っていた喫茶店。「ママ」が、狭い店の中で笑顔をふりまいていた。でも、誰にでも向けられていように見えたその笑顔は、実際はただ一人の男の為のものだった。そういう過去を、僕は駐輪場へ投影する。傍から見たら、自転車を盗もうとでもしているように見えるかもしれない。だけど僕の思考は、過去に埋もれていく。改めて触れてみて、やっと気づいた。そもそも、そのときの気持ちに、明確な形などなかったということに。
 ママへ対する想いをどう定義するべきなのか、僕はずっと考えていた。あの頃、多分まだ僕は恋をしたことがなくて(したことがあると思い込んではいたけれど)、でも気づかないうちに動いていた気持ちは、恋未満のまま、外堀すら完成せずに留まり、そのまま朽ちて、僕の中に残ったのだ。手を伸ばすことのできないものへ対する想いは、こうして廃墟となって、人生に積もっていくのだろう。
 「tokage」という店がそこに在ったのは、ほんの五、六年だったのじゃないかと思う。通い始めたころに、まだオープンしたばかりだと、ママが言っていたからだ。僕にとっては、「tokage」は二次元的存在だった。友人に会わないように、わざわざ大学から一駅くらい離れた場所で、常連になる為の店を選んだ。そしてその空間を、現実と区別していた。僕はそういうタイプの人間で、「tokage」はそういうタイプの人間にうってつけの店だった。
 店はママが一人でやっていた。その頃、ママは四十代だと言っていたけれど、ずっと若く見えて、綺麗で、いつもおしゃれだった。華やかで、棘がなくて、柔らかい雰囲気を携えていた。きっとその頃、彼女は満たされていたのだろう。幸せだったのだ。
「俺、大学とバイトとここのルーティンで生きてるわ」
 いつものカウンター席で僕がそう言うと、ママは僕のカップにおかわりのコーヒーを注ぎながら、上目づかいにこちらを見た。
「若いんだから、こんなとこでだらだら時間潰さないで、もっと無駄なお金使ったり、デートしたりしなさいよ」
「言っていることとやっていることが矛盾してるけど」
 カップを指さしながら、僕は反撃をした。
「今はお客様だから、そう扱ってるだけ」
「若くても堅実なのはいいことだし、デートは歳とってもできる。でも「だらだらする」っていうのは、社会に対して特に大きな責任を負っていない若者の特権なんだよ」
「あらそう。私にはなぜか、彼女のいないことに対する言い訳に聞こえてしまうわ」
「確かに、俺別にモテるほうじゃないけど、モテないことが悪いことでもないじゃん。それに恋愛の割合は、人それぞれだ」
「恋愛の割合」
 ボソッと僕の言葉を復唱して、ママは目線を宙へ泳がせた。
「何?」

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