小説

『幸せな泡』中村久助(『人魚姫』)

 私は人間の王子に恋をして泡になった人魚だ。
 私は彼を一目見た時から恋に落ちた。それは初めての感覚で、幸せなようで苦しくて、切ないけれどあたたかいような、不思議な気持ちだった。
 難破船から放り出され、溺れて死にそうな彼を私は助けたけれど、彼は私とは別の女性に助けられたと思っていた。私が海の魔女から声と引き換えに人間の足をもらった時、王子から愛されなければ泡になる、と言われていたけれど、彼はその別の女性を愛した。
 私は王子を殺さなければ生きられなかったけれど、私は王子を殺さなかった。

 私は、自分の選択に悔いはなかった。
 王子のことや、その女性のことが憎いのではないかと思われるかもしれないけれど、私は誰のことも恨んでなんかいなかった。
 私は自分を貫いたから自分を誇りに思っているし、私は自分のことを単なる恋に盲目で馬鹿な小娘ではなかったとも思っている。
 私は私が生きたいように生きられて幸せだった。私はただ、後悔のない生き方をしたのだ。

 ただ一つ、心残りがあるとすれば、五人の姉たちのことだ。
 私が泡になって、姉たちはとても悲しんだ。朝も昼も夜も、姉たちは私のために泣いた。
 でも、私は姉たちに伝えたい。
 私はずっとここにいる。
 泡ははかなく消えるものじゃない。私も、人魚だった頃には気づかなかった。

 泡になった私は、海の中をぷくぷくと、ゆらめきながら泳ぐ。
 姉の一人が、小さな岩に座って、珊瑚を見ながら泣いていた。昔、ここでよく姉と遊んだ。珊瑚には可愛い魚の赤ちゃんがいて、私たちはこの場所が大好きだった。
 もう泣かないで、とぶくぶくしてみたけれど、姉にはうまく伝わらなかった。
 どうしたらいいのだろう、と考えていると、珊瑚に小さな魚の赤ちゃんがいることに気付いた。
 私は珊瑚に近づいて、魚の赤ちゃんに、姉を元気づけてくれないか、とぷくぷくした。私の言葉をわかってくれたかどうかは定かではないが、魚の赤ちゃんは姉の方に向かってぴょこぴょこ泳いでいき、姉の頬にキスをした。姉は何が起きたかわからず一瞬びくっと驚いたが、魚の赤ちゃんがキスしてきたことに気づき、優しく微笑んだ。
 私は魚の赤ちゃんにぶくぶく、ありがとうと言った。

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