小説

『恋と影』和織(『死と影』)

 ママは言って、僕のカップを下げた。すっかり冷めてしまった中身を捨て、暖かいコーヒーを注いで、出してくれた。
「あの人の傍にいることが悪いことでないのなら、そうしていたいっていうだけなのよ。彼は、私の恋なのよ。あの人ね、今も昔も、この先もきっと、別れた奥さんのことしか見えないの。かわいそうでしょう?そんなに好きな人に振られちゃったなんて。この先ずっと、絶望と向かい合って生きなくちゃいけないのよ。いっつも、死にたがってる。でも奥さんが生きているから、この世から離れられない」
「・・・・・だから、かわいそうだから、してあげるだけしてあげて、甘えさせるだけ甘えさせるの?気持ちは、ママだって、あの人と同じじゃん」
「違うのよ。私にとってはね、それが全てなの」
「は?」
「彼は私を愛さないから、私にとって永遠の恋なの」
「・・・・・全然わかんない」
「そりゃそうでしょう。私とあなたじゃ全然、恋愛の割合が違うんだから」
 そう言って、ママは笑った。そのあと何を話したのか、何か話したのかどうかさえ、よく覚えていない。とにかくその、出口も解決も何も求めない物語は、しばらくの間、僕の思考の四分の一くらいを占領していた。
 大学を卒業して、店に通う頻度が、週三回から月一回に減った。ある日突然、ママから「店を閉める」と聞かされて、その後半年くらい、僕は店に行かなかった。行けなかった。そしてその間に、「tokage」はなくなってしまった。
 その日、最後に会ったときのママの姿に、店に入った僕は、一瞬足を止めてしまった。それ程地味な格好をしたママを、見たことがなかったからだ。あの、柔らかい雰囲気は消え去り、笑顔が寂しげで、でもそれまでで一番、綺麗だった。
「年内には、ここ閉めるかもしれない」
 何かあっただろうと予想してはいたが、ママがそう言ったのを聞いて、僕はかなりショックを受けた。多分、顔に出ていたと思う。
「どうして?何かあったの?」
「あのね・・・・・」ママは僕の耳元に顔を寄せた。「彼の元奥さん、亡くなったのよ」
「・・・は?」
 大きな声を出してしまい、三つ離れた席にいた客にチラリと睨まれた。もう一人奥にいた方には、見向きもされなかった。
「事故でね」
 ママはそう付け加えた。僕はその後の説明を待ったけど、特に何もないようだった。説明しなくても、わるだろうということか。まぁ、人が死んで、喜ぶなんて不謹慎だし、ママが急に地味になったのも、喪に付しているということか。そいうことなのだろう、と思った。そう、そういうこと。したくもない理解が、頭の中でドミノ倒しのようになされていった。ママと彼、二人はとうとう、一緒になる訳だ。彼をつなぎ留める必要がなくなったから、その為だけに存在していたこの店は、もう必要ない。もちろんそこにいる客も、全て。

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