その晩、おかしな夢を見た。おれはいつのまにか、何処ともしれぬ森の中に佇んでいた。空は臙脂色に染まっていた。その色合いを見て、おれはあの絵の中にいるのだと確信した。はやる気持ちを抑え、足早にあの湖を探した。じっとりと空気が湿っていた。まるであの油絵具の質感のように、おれの皮膚にまとわりついて離れない。ひどく汗をかいていた。目を覚ます前に探し当てなければ……勿体無い。折角、お目にかかれる機会が来たのだ。なんとしてもこの目で見なければ。
湖はすぐに見つかった。少し歩くと、拓けた場所に出た。湖は空の色を映し出して、臙脂色に染まっていた。水はコールタールのようにドロドロとしていて、至る所で渦を巻いていた。あの絵と同じ場所だ。おれは何度も瞑想でイメージしていたように、湖に飛び込んでみたくてたまらなくなった。柳が一本、湖の中心部に延びていて、おれはすぐにそいつへ飛び乗った。慎重に中心まで歩いて、さあ、飛び込むぞ、というところで、絵にあった睡蓮の花がまったく見当たらないことに気がついた。おや? と思い、足を止めたが、背後から何者かに突き飛ばされて、おれは湖の中に落ちた。すぐに水面に上がろうとしたが、ドロドロとした水が服や身体に纏わりつき、おれを掴んで離さない。たくさんの水を飲み込んだところで、ようやくおれは気がついた。湖ではなく、沼だったことに。おれは完全に溺れきってしまう前に、なんとか口だけを水面に出すとありったけの酸素を肺に取り込んだ。頭まで浸かってしまうと、沼の底まではあっという間だった。5mはあっただろうか。水底に足をつけ、何か脱出の術はないだろうかとあたりを見回すと、沼の底にたくさんの人が沈んでいることに気がついた。よくよく目を凝らせば、その中には店のマスターや顔を見せなくなった爺さんたちの顔があった。みな、幸福そうな満ち足りた表情を浮かべ、胸の前で手を組み、仰向けに寝そべっている。ただ眠っているだけのように見えた。とても死んでいるようには見えなかった。
このままこの中に加わるのも悪くないのかもしれない……。
そんな考えが頭をかすめた。もう息が底をつきそうになった時、たくさんの死体の口からほっそりとした茎のようなものが伸びていることに気がついた。それは恐ろしい速度で成長していた。あっという間に上へ上へと伸びていく。おれはいくつかの茎をまとめて掴むと、棒登りの要領で水面を目指した。途中で息が尽きたが、がむしゃらにただ上を目指し、なんとか水面に顔を出すことができた。やっとの思いで大量の酸素を取り込むと、すぐに咳き込んでしまって、ドボドボと口から粘り気を帯びた大量の水がこぼれ落ちた。どうやら、吐いているみたいだった。水面にはたくさんの真白な睡蓮の花が咲き誇っていた。それはそれで美しかったが、もはや、どうでもよかった。早く目を覚ましたかった。おれはいつ目を覚ますのだろう? と考えて、もう覚まさないのかもしれない、とも考えた。藻と睡蓮の入り混じったむせ返るような匂いがツンと鼻をついて顔をしかめた。頭がクラクラした。早く家に帰って、熱い湯船に浸かりたかった。
ふいにどこからか歌声が聴こえてきた。か細い音だが、確かに聴こえる。音の出所は……すぐ近くだ。ああ、そうか、睡蓮の花だ。睡蓮の花が歌っているのだ。耳を近づけてみれば、花弁の中から確かに聴こえる。耳に水が入り込んだせいか、くぐもっていてよく聴きとれなかったが、すぐになんの曲だかわかった。それは老人の歌声だった。思いがけず、口からこぼれた。