「参ったなあ。それじゃ困るんですよ。まあ、いいや、また来ます」
嫌な予感がした。どうも男はマスターに何か貸しがあるみたいだった。客入りの少ない店に業を煮やして、毎日のように顔を出しているとか? まさか店をたたむんじゃないだろうな……。それじゃ困る。あの絵を喪ったら、おれの生活はあっという間に恐慌状態に逆戻りだ。最悪な朝を迎え、なじられながら仕事をし、どうしようもない怒りに囚われ、眠れぬ夜を過ごす。その繰り返し……。そんなことになれば、今度こそおれは耐えられないだろう。せめて絵だけはおれのものにしたい……。そう考えていた矢先だった。
ある日、店の扉を開けるとマスターの姿が見えなかった。そんなことは初めてのことだったので少し面食らったが、別に来るまで中で待っていても構いやしないだろうと、いつもの席に腰を下ろして絵を眺めた。急な買い出しにでも行ったのかもしれない。ぼうっとしながら待っていると、店の扉が開いて、あの男が入ってきた。男はひどく濡れそぼっていた。
「いや、参りましたよ。急な通り雨に降られましてね。ツイてない……って、あれ? カンザキさんはいらっしゃらないんですか?」
イヤに馴れ馴れしい態度だったが、無視するのも悪いと思い、スツールの向きを変え、おれは答えた。
「マスターのことなら、そのようです」
「ええ、困ったなあ。今日こそきちんとお話ししようと思っていたのに。あなたは……いつもいらっしゃる方ですよね」
「ええ、まあ……」
「そんなにその絵が気に入られましたか」
「はい」
「なんだ。カンザキさんも人が悪い。ちゃんと気に入ってくれた方がいたんじゃないですか。いや、実はね。私がこう何度も何度も足を運んでいたのは、その絵の引き取り手を早く見つけて欲しいって話でね。お兄さん、よければその絵、持って行って頂けませんか? カンザキさんには私から言っておきますので」
なんてことだろう。おれは二つ返事で了承した。男はテキパキと絵を壁から外すと、持っていた鞄からモスグリーンの布を取り出して手際よく包み「じゃっ私はこれで」とだけ告げて、さっと店の外に出て行った。絵を持つ両手が震えていた。天にも昇る心地だった。
おれは居ても立っても居られず、すぐに店の外へ出た。早く帰ろう……。もうこんな店に用はない……。幸運なことに通り雨は過ぎ去った後だった。家に帰り着くとすぐに布を剥いで、壁に立てかけた。自分の家で観ると、絵はその美しさをより増しているように見えた。
なんだ。早いところ、切り出せば良かった。マスターも人が悪い。もう少ししたら、危うく盗みを犯すところだった。おれは手に入れた喜びを噛み締めつつ、絵を眺めながら寝床に就いた。