小説

『スワンプボーイ』泉鈍(『沼』『沼地』芥川龍之介)

 いや、もう一つ理由がある。

 この店に足繁く通うようになった一番のワケは、とある絵画が飾られていることだった。おれは別に絵画なんてちっとも詳しくないし、たまに人に誘われて美術館に出かけてみても気に入ったものが一つ見つかるかどうかといった具合で、ほとんど素通り同然で鑑賞を終える性質だったが、いつもおれの座る席のちょうど真正面に掛かっている油絵にはすっかり魅了されていた。最近じゃ、その絵を眺めながら一杯やるくらいだった。一度、気になってマスターに尋ねたことがある。これはどこの作家が描いた、なんて名前の絵なのかと。ちゃんと答えてくれるか不安だったが、案外普通にマスターは答えてくれた。
「作者は存じません。絵の題は『昼とも夜ともわからない』だと聞いております」
 金縁の額に入れられたその絵は、縦60cm、横80cm程のサイズで、絵のほとんどを臙脂色に塗り潰されていた。よくよく目を凝らして見てみなければ、それが実は風景画だとは気づかないだろう。絵は湖と鬱蒼と茂った木々で構成され、水面にはいくつもの真白な睡蓮の花が描かれていた。
 集中力が散漫で、うまく本にのめり込めない日は、ぼんやりとその絵を眺めた。そして絵の中にいる自分の姿を夢想した。オフィーリアのように水面に浮かぶ自分の姿。絵を見つめながら、そんな想像をしているだけで、この上なく神経が安らいだ。
 ちょっとした瞑想だ。
 そうした後は、夜、必ずグッスリと眠ることができた。朝になって思う。こんな目覚めを味わえたのはいったいどれくらいぶりだろう? 気持ちのいい朝を迎え、仕事をし、瞑想モドキをして、眠る。おれはどんどんその絵に病みつきになった。今じゃ文庫本を取り出すことさえない。あの絵を家の壁に飾って、まんじりと眺めながら眠りにつけたらどれだけ幸せだろうとまで考えた。

 爺さんたちの姿を見かけなくなったのはちょうどその頃だった。

 おれは絵と向き合う環境が整ったことを喜び、より頻繁に通うようになった。精神の安定、不安定に関わらず、おれは店に顔を出し、ただ酒を飲みながら絵を眺めた。おれの精神は絵中の湖面のように穏やかになっていた。何にも乱されることがなくなり、グッと仕事がうまくいくようになった。以前の自分が嘘のようだ……。おれは完璧な調和を手に入れていた。この店と絵がある限り、それは決して揺るがないように思えた。
 ところが最近になって、爺さんたちの代わりに、やけにピシッとしたスーツを着た30代半ばくらいの男がマスターを尋ねてくるようになった。彼は不自然に明るく、慇懃無礼な態度でマスターと二言三言交わしてはすぐに店を出て行った。会話の内容はいつも同じだった。
 男が言った。
「いい加減、もっと発破をかけてくれないと」
「そういうのは、好みではありません」

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