小説

『Tokyo山月記』両成敗(『山月記』)

「それは、獣化する事を望んでいるということ?」
「『野獣は野獣を知る。同じ羽毛の鳥はおのずからいっしょに集まる』」
 今度はアリストテレス。自分の博学を見せびらかしたい感じ?
 けれど、この狭い部屋の中に本棚はひとつきりだ。それも、あまり大きいものではなく、いつのものか分からない教科書と、少年漫画らしき背表紙が並んでいるだけ。
 私は無類の本好きで雑食だけど、彼の顔つきは本を読む人間には見えない。そういう知識はネットで得るのかしら。広大な電子の森で迷う魂たち。迷子は彼だけではない。無辺のネットのあちこちに、現代の隠者たちが棲んでいる。だが、たいていは底が浅くて薄っぺらい。私はやっぱり紙の本のほうが性に合っている。
「獣になりたいの?」
 進んで獣になりたがる人間は、確かにごく少数だけれどいるらしい。
「けどね、獣になると、言葉も失われる。家族を家族だと認識できない。獣の種類によっては、家族とも引き離されて一生を過ごすことになる」
 人間から獣にはなれるが、その逆はない。
 一度獣化した人々の末路は悲惨だ。それは家族の了解を得てニュースで、あるいはルポルタージュの形で世間に知られているけれど、実際はもっと惨めで救いがない。
 私は研修で、獣化した人々のシェルターに1ヶ月勤務していた。あの糞尿の臭いは今も忘れられない。
 逆剥けがヒリヒリする。ハンドクリームが欲しい。
 私ができる事は、彼に少しでも生きる希望を見出す手助けをする事だ。
 青年の言葉は続く。
「『神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。産めよ。増えよ。地に満ちよ』」
 創世記9章第1節だ。
「けれど、人間はあまりに多すぎる。そうは思わない?」
 私は気づいてしまった。彼の口が開いていない。全身の血が逆流したように感じた。
 一体いつから、彼は口を開いて言葉を発していないの? この声はどこから出てるの?
「透明な会話は、宇宙の終わりまで続く。永遠に」
「待って。あなたは、いったい――」
「夜も朝も、時間さえも錯覚だとするなら」
「考えさせて」
「迷っているのはあなたのほうだ」
 反射的に立ち上がる。指の逆剥けがヒリヒリと。この耳鳴り。
「もしかしたら、逆なのかもしれないと、考えたことは?」
「え?」

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