小説

『白波の浦』山風大(『伊勢物語 第六段芥川』)

 白波の寄る浜離れて舟立ちぬ甲斐なき海路いづこ浮くらむ

 大部屋を男女二間に分かつ襖が細くひらくと、幽き面がぬっと出る。そのすがたで、闇のおちこちを左見右見――ト見留めてか、女は襖をするりと抜ける。布団に乱るる酔臥の体をまたぐこと二ツ三ツ。狙いの相手の肩を揺すりつつ、
「先輩……先輩……有村先輩……」
 耳許に私語くうちに、男はフト目覚めた。薄目に見返す面は眠たげ。
「……朱音か。どうした、まだ遅いだろ」
「ちょっと話があって……。これから出ませんか?」
 おもむろに起き上がるを諾と見て、朱音はそっと引き返す。襖の隙間から、小玉の薄明かりが洩れている。その一筋が、部屋の畳を曳いて、裏返しのお面の上へ。ぼんやり泛かんだが、襖が閉じて闇に沈んだ。

 湾曲する海岸沿いの歩道に男女の影あり。夜更けの昏き浜辺を右手に、耿耿と輝く外灯の下をそぞろに歩く。寝汗に湿った肌を夜風がなでる。時は晩夏なり。
「それで、話って……」
 有村が話を促すと、朱音は一つ間を置いて、
「あの、先輩の彼女さんのことで……」
「なんだ、七海に何か言われたの?」
 朱音はかぶりを振ると、海の彼方をながめやり、
「あれから口も聞いてくれなくて……」
 不穏をはらむ厚き雲が、夜空に低くたなびいている。

 昨夜と云っても、五時間ばかり先のこと。練習上がりの宴の席。開け放った襖の、敷居を跨いでつながる二脚の座卓を、ぐるり囲んだは二十余人。手ん手にグラスで、一日の疲れをいたわる風情。
 さて、宴もたけなわ、庭木の楓もよろりな頃おい、騒ぎ立つ酔いどれのうちに、余興とて、物真似やら一発芸やらを演ずる者あり。はなはだしきは、蹣跚と座卓に向かうや、そのまま上がって似非盆踊り。裸にお面のちぐはぐで、双手ひらひらと踊る姿に、座の一同はどっと笑う。
 見上げる顔のほころびる、あぐらの有村に、ここぞと朱音が撓垂れて、尻目に踊りをチラチラ、凛々しき面をまぢかに秋波――日焼けの筋肉が逞しい、両脚のあいだから、曇りの顔が覗いている。咲みの座につぼむ一輪の花。ト七海の視線に朱音が気づく。七海はどうにか作り笑い。朱音は何も言わぬにつけあがり、相手を向こうに眺めながら、男の腕をかかえ誇り顔。姑息の笑みが露と消える。

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