小説

『白波の浦』山風大(『伊勢物語 第六段芥川』)

「あれは別に朱音のせいじゃないよ」
 有村は俯きがちの隣に、慰めの言葉をかける。合宿所を出て、道を歩くこと三十分程。振り向けば、海岸は光の帯をまとい、弓なりに海へ突き出している。
「でも私のしたことが始まりだし……」
「将人がいけないよ。みんなの前で、俺たちがデキてるみたいに言ってさ」
「七海さんに、先輩がもう飽きてるとも言ってましたね。あれは気の毒でした。彼女としての立場がないですよ。席を立つのも当然です」
「第一、あいつは飲み過ぎなんだよ。酔っ払って机にまで乗って。それでいの一番に寝るんだからいい気なもんさ」
 有村はさして困ってもいぬ調子に文句をたれると、
「それで、あのあとも七海は不機嫌だったんだね」
「お開きのあと寝支度をしてる時に、何気なく話しかけてみたんですけど返事がなくて。やっぱり怒ってるようでした。だから謝る機会逃しちゃってて……」
「そんなに気にすることないよ。一晩寝れば機嫌も直るだろう」

 二人が出てから幾程も隔てず、七海は目を覚ました。枕を内側に、二列に並べた布団の端。体を起こし、薄明かりに向こうを見ると――斜の褥がもぬけの殻で。トイレかと暫く待ったが、廊下に帰りの気配なし。七海はにわかに不安を覚えた。起き上がり、枕元をそろりと抜けると、襖を開いてあちらを覗く。それから部屋に這入ったが、まもなく出て来、襖ぎわの空の褥をまさぐり、その未だ温きを確かめてから、元の巣に還った。
 時刻は午前一時過ぎ。電話が繋がらず、メッセージを送るも果たして返事は来ず。七海はいよいよ胸騒ぎがした。いそぎ外出の支度をはじめる。その終わる頃、フイと隣からひそめた声で、
「……ねぇ、いまからどこか行くの?」
「綾、起きてたの……」
「何かあったわけ?」
「大したことじゃないんだけど、あの……彼が部屋にいないのよ。トイレでもないみたいだし、私ちょっと外を見に行ってくる」
「有村君、散歩にでも行ったのかしら……。夜中だし、私も一緒に行こうか?」
「ありがとう、でも大丈夫よ。その辺を一回りしてくるだけだから。綾はまた寝てて」
 そう言い部屋を出ようとする、七海が左手に持つものを、綾はじっと見つめて、
「……そのお面、持って行くの?」
「彼と会ったら、驚かそうと思って……」
 肩ごしに振り向く、微笑を湛えた横顔が、小玉の明かりにあやしく浮かんだ。

 一息と足を止めた、道幅の広い処。有村は欄干に肘をかけ、暗澹たる海原を望んでいる。沖合にこれという物影なし。潮風に乱るる前髪を、手櫛ですっとかきあげる。暗雲のたれこむ頭上を仰ぐと、ベンチの朱音を振り返り、
「さて、そろそろ帰ろうか」

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