小説

『ホイッスラーと紙飛行機』もりまりこ(『葉桜と魔笛』)

 その日はそれで終わりだった。収穫はその人の名前が、フェルナンドさんだったことと、そのちっぽけな紙飛行機を欲しいと言ってくれたことだった。お父さんはリスボン生まれらしい。いま、誰もが過去形で話す時はすべてあのちいさな戦争のせいだと思うことにしている。近くで見ると、ほどよく柔和な表情の人だった。眼がたまらなく好きって思った。あの闇に包まれた日以来いちばん幸福だったのかもしれない。1週間その人に逢えなかったけど志麻はそこに通い続けたつまりタピオカラテを飲み続けた。
 8日目。インタープリターの人を通して、フェルナンドさんは人生は短いってことを話し始めた。そして昔は「反響定位」のインストラクターだったことも。指や舌を鳴らした音の反響とその音の遅れで物の位置と方向を測れる術を身につけていたらしい。舌を鳴らしてっていうところでは、ちゃんと目をつむってフェルナンドさんの舌が鳴った。例えば路面電車がゆきかう音。人々の歩く足音や車の音にまみれながらも、ちゃんとおびただしい音の隙間を縫いながら、ここの近くには港があってとか、そこを大型客船が行き交っていることを耳でキャッチしていた彼を想像してみる。わけもなく涙が出そうになった。見えない人の眼になろうとしていた彼が今声を失って、間に誰かが入らなければ会話すらできないのだ。みえるって。歩いてゆくって、なんだろう。あのちいさな戦争の前、抱えきれないほどの視覚からの情報に頼っていた日々を思って眩暈がする。音や匂い指先が触れたその感触をたいせつに、彼らの道しるべのように生きていた彼。
 一週間カフェを訪れなかったのは、リハビリのせいだと知った。口笛からはたぶん一生逃れられないらしい。あれから6か月。近頃はあのインタープリターのおじさんも一緒ではなくて、ふたりの力だけで言葉を理解しようとしている。
 ずっと一緒にいると、そういうことがわかってくるものなのだ。
 風を肌で感じるような季節になっていた。志麻の声は相変わらず凪だった。ほんとうに生身だなって思う。身体と心のバランスなんてもしかしたら、とれていた試しがないのかもしれないし。それでも、ふちのふちから落っこちないように歩いてゆく術をいつのまにか身に着けてしまったのかなとも思う。それは、あのちいさな戦争とは関係ない。ある日フェルナンドさんが港に行きたいといった。故郷のリスボンを思い出すらしい。横浜の海だった。そこでは海がひとが、そらがふねが、ジェリービーンズがグレン・グールドが蓄音器が、ことばを奏でているって彼が言った。ホイッスラーとちがって、志麻は奏でる日常ではないところで、暮らしていることを如実に気づかされる。だけどフェルナンドさんがそう言うと、まるで日々それぞれがなにかを奏でているかのような錯覚に陥りそうになる。そしてそれは、もしかしたらどこかの国の誰かも日々を奏でて暮らしているんじゃないかと、まっすぐだまされていくことへの心地よさへとつながってゆく。
フェルナンドさんが志麻を抱きしめた、口笛を吹きながら。運命と覚悟がみなぎったひとは筋肉のついた精神を持っているような気がした。口笛をつたないなりに訳してみる。
「海がひとがことばを奏でているのは、あのちいさな戦争のまえぶれなのです」そんなふうにしか訳せなかった。フェルナンドさんの腕の中から離れようとしたら、彼の鞄の中からあの日の紙飛行機が何機も落ちてきた。

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