オサムは小学校の先生をやっていて、二年四組の担任をしていた。小学校の先生というと、子供の面倒見がよくて真面目で優しいように思われるかもしれないが、オサムは面倒見もよくなければ、真面目でもないし優しくもなかった。反対に怖くもないのだが、それはたんに怒らないというだけで、間違っても優しさとは結び付かないのだが、まだ十歳にもならないほとんど幼児と変わらぬくらいに小さな児童たちにとっては、怒らない大人というだけで優しく思えるもので、またそれはしばしば大人たちにとっても優しさと怒らないというのは混同されがちなのだが、それは置いておくとして、まあそんなだからオサムは面倒見こそ悪いが優しい先生だと児童たちには思われていたりするわけであった。ともすればそれは児童たちがオサムに懐いていると言ってしまってもよく、児童たちは何かとオサムにちょっかいを出したりして楽しそうにしているし、その様子を眺めていれば実際のところオサムは児童たちから舐められているのだというのが一番正しくて、まあ要するに児童たちはオサムの言うことを全然聞かない。それもたんに児童たちが言うことを聞かないという話であるならまだしも、そもそもオサムが言うことを聞かそうとすらしていないのだからもっと悪い。だからオサムに対する他の先生からの評判はひどくて、陰口を叩かれることもあるし、わざとそれがオサムに聞こえるように言う先生もいれば、単刀直入に、あんた先生向いとらんわ、とっととやめてくれ、と強めに年上の先生から言われることもあり、オサムもオサムで先生という職業に特別な思い入れも何もなかったから、やめてしまおうかなと思うが、やめてしまえば金はなくなるし、金がなくなったら困るので、やめずにやめられず、やめるなら何か別の仕事を探さなきゃしかたがないし、それでやめたとてまた他の仕事をするのであれば結局どこで何をしようが働かなければならないということには変わりないのだと気づき憂鬱になった。そんなようなことを思いながら、学校でのだいたいの時間をぼうっと上の空で過ごしている頃に、マロサマがこの二年四組に引っ越してきたわけである。
マロサマというのは、オサムのクラスにやってきた転校生のことで、どこかの地方から親の仕事の都合でこの小学校に転校してきたらしく、その珍しい名前と、方言なのだろう、変わった話し方でみんなの人気者になった。児童たちはみんなでマロサママロサマとはしゃぎ、それの何がおかしいのかいつもげらげらと笑っていた。はじめは、こういうものがいじめに繋がるのではないかと思って、そんなことになったら大変面倒なのでオサムは憂鬱な気分を抱えたが、それで児童たちを監視するわけではないが、いつもより少しだけ注意して見ていると、休み時間などにはマロサマの周りに児童たちが集まってきて、マロサマの取り合いみたいになるし、席替えをすればマロサマの近くになったものは喜び、またマロサマから離れたものは悲しがるというくらいで、まったくいじめのようなものが起きる心配はなさそうなのである。