小説

『タマコ』洗い熊Q(『支那の画』)

 言ってたのはスラヴ風。その踊りはどっちか言えばインド風。やれやれと二郎は頭を抱えた。
 彼は行く手のない彼女手を取ると先程のポーズを取らせる。
「ほら頬杖突いて……足も立たせて。もっと椅子に腰を落とすんだ」
 二郎はそっと珠子の腰に手を回した。触れた掌にマシュマロの様な脂肪の柔らかさを感じる。持ち上げると掌を包み込んで温もりも伝わってきた。
 正直、興奮はした。だが罪悪感はなかった。
 それは二郎が触れる事に珠子が拒絶しないからだろう。ちゃんと分かってくれる。そんな気持ちではないと受け入れる。
 触れ合ってそれも伝わる。
 顔を赤らめながらも二郎は彼女に感謝するのだ。
 それに思った。今、珠子って言っても怒らなかったと。


 ミュシャは女性が苦手だったと聞く。
 あれ程に女性をモチーフにした多数の作品を創りながらだ。
 ――父は女性にうんざりしていた。
 彼の息子の言葉だ。でもウンザリという表現は毛嫌いや嫌悪の塊ではないからでは?
 理解できない。いや越えるものが女性というものに感じられたからではないか。
 それを表現しようとしたのではないかと。
 確証を得る様に観れたのはミュシャのデッサンだった。様々なポーズを取られせた女性の下書き。
 バレエの動き。ぐっと唸らせて見せる項のラインだ。
 だが美しい線の印象よりも、その延長にある身体そのものを想像させている。
 彼は女性の身体そのものを表現したいのでは。嫌らしい言い方だが服の下、柔らかく強靭な体を想像していたのだ。
 男なら妄想する女の体。しかし官能の先に思う象徴は、その芯の強さ。
 そうだ。随の内部、内臓をも支える支柱。受け入れるという男には真似づらい特有の強かさだ。
 敬意も畏怖も込めて、彼は愛情を持ってそれを表現した。

 二郎には共感するものが。
 同じくに苦手な女性の中で、真面に喋れる人物。
 担任の先生。三歳年上の従兄弟。
 そして長馴染みの珠子。
 共通するのは皆、尊敬する女性だ。
 特に珠子は誰よりも自分の絵画に対して素直に称賛してくれ、口が悪くても誰よりも応援してくれた。
 人に対して実直で、寛容で、自身に素直にワガママな彼女。

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