小説

『思い届くまで』霜月透子(『赤ずきん』)

 一目惚れなんてあるわけないと思っていた。あの晩、彼を目にするまでは。

 ユリの家の前に佇む彼を見たとき、ついに王子様が迎えに来たのかと思ってしまった。街灯の明かりに浮かび上がる姿はスポットライトを浴びているかのようだった。
 その家はユリの実家だが、いまは私の家でもある。正確には居候先。ユリの両親は親の介護のため、父方の故郷で暮らしている。ひとり残されたユリは部屋を持て余し、大学時代からの友人である私にルームシェアを持ちかけてきたのだった。ユリは華やかな人柄で友人も多く、そんな彼女の近くにいられるのは誇らしかった。しかも家賃はいらないというので、社会人一年目で貯金が心許ない私に断る理由などあるはずもない。そんなわけでユリの家は私の家でもあるわけだ。
 その玄関先に王子様が立っている。もちろん普通の住宅街で絵本に出てくるような王子様の装いをしているはずもなく、彼が身にまとっているのはごくありふれたスーツだ。
 彼は何度も呼び鈴に指を伸ばしかけてはため息をついた。二階の窓に明かりがついているからユリは帰宅しているはずだ。私の知人ではないからユリを訪ねてきたに違いないのだが、なぜか目的を果たせずにいる。その迷いと緊張が遠目にも伝わってきて、とてもではないが声をかけられる雰囲気ではない。そして私は帰るに帰れない。
 やがて彼は呼び出すのを諦め、スーツの内ポケットから一通の封書を取り出して郵便受けに差し入れた。用事を終え、こちらへ向かってくる彼に怪しまれないように、私もたったいま通りかかったかのように歩き始めた。擦れ違いざまに私は横目でちらりと彼の顔を見上げたけれど、彼の方は誰かと擦れ違ったことすら気にしていない様子で、足早に駅の方へと向かっていった。
 私は郵便受けから彼が入れた封書を取り出す。やはり表書きにはユリのフルネームが書かれていた。力強い筆跡だ。差出人は赤城という名だった。赤城本人の住所は書かれているものの、宛先であるユリの住所はない。家の場所は知っていても住所がわからず、手渡すつもりだったのかもしれない。封はしていなかった。
「ちょっとだけ……」
 私は通りから陰になる玄関脇に移動すると、封書の中身を取り出した。

《僕を覚えているだろうか。君は忘れたかもしれないけれど、僕は片時も忘れたことはない。》

 そんな熱烈な書き出しに、鼓動が高まった。冒頭だけ覗き見るつもりが止まらなくなった。読み進めれば、どうやらふたりは同じ高校の先輩後輩だったようだ。赤城は進学と同時に地元を離れていたが、最近帰ってきたという。

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