小説

『タマコ』洗い熊Q(『支那の画』)

 深々と籐椅子に背を乗せた珠子の身体はふっくらとした線を見せた。豊満な彼女を強調し柔らかく、そして服下から温もりを感じさせる。
 気怠そうに頬杖を突かせても、真っ直ぐと此方を見つめさせると優雅に悠々とした印象を醸し出しているのだ。
 見て二郎は思った。これが珠子らしいと。


 あくまで個人の見解だ。正解だとは二郎自身も思っていない。
 ミュシャの作品の中でもっとも彼の思考、または思想に近いかも知れない。この「ヒヤシンス姫」にそれが凝縮されていると感じた。
 商業的なプランナーの才もあったミュシャだが、見栄えや評判だけで作品を創ったとは思えない。
 やはりそこには想い、伝えたい何かがある筈だ。
 それは他の作品にも見て取れる。美しく気高い女性。テーマや構図の優先でそうでないのも有るが。
 彼が描く女性はどれも顎を上げ凜とし、美しい線で項や首筋を見せ、まるで此方を見下ろす、いや更に先を見つめている彼女達。淑やかに慎ましい印象は少ない。

 また晩年のミュシャは自身の民族の血筋を重んじた様に、祖先の歴史おける悲劇を長い年月を掛け描いていた。

 血筋、女性。そこにある歴史の背景は女性軽視の社会時代だ。
 二十世紀初頭では幾分か女性の人権や権威は尊重されていたが、やはり根底の思想には未だに軽んじた風潮がこびりついていた。
 事実このバレエ・パントマイム「ヒヤシンス姫」の題材はスラブ女性の成功を主題とし、主演した女優はミュシャと同郷。
 愛国心と共に彼の女性に対する称賛と愛情が絵に現れていると感じたのだ。


「あー、ダメだ! 肩が凝り固まる~」と珠子は急に籐椅子に横たわって背筋を伸ばした。
「動かないでくれよ! もうちょっと形になるまで我慢してくれ」
 二郎は天を仰ぎながら珠子に近づいて行った。
「写真でいいじゃん。バシッといいやつ撮って、それ見ればいいじゃん。ほら、スマホとってよ」
 珠子はもう限界ですよと顔で表現しながら手を伸ばす。
「もう少しだからお願いだよ。いい感じなんだ。珠子がモデルしてくれてる御陰なんだよ」
 困惑顔で二郎が懇願すると珠子は膨れっ面を見せる。
 そして急にカクカクと不規則に手を動かして踊り始めた。
「な、何してるの……」
「いや、ポーズはどんなんだったけなぁと……アラブ風? ほら二郎が言ってたやつ」

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