小説

『せめて別れ際だけでも美しく』ノリ・ケンゾウ(『列車』太宰治)

 ねえ、大丈夫かしらね、誰か体調悪いみたいだけど……、とオサムの方を向いて声をかけると、オサムは前をぼうっと見ながら何も答えずで、聞いていないのだと思ってオサムに向けていた顔を自分の目の前の景色に戻すと、え、あ、体調ね、大変だね、と上の空の返事がかえってきた。それからもう一度、私の方を向いて、いつもの優しい微笑みを向けてきた。なんだかため息が出そうだった。この男はいつまでこれを続けるつもりなのか。すべて終わったつもりで冷静になってから見ると、オサムの甘い表情には、違和感しか抱くことができない。なかなか離れられないんだねえ、ぼくらは。またオサムが言った。うるせえなこいつ。今まで素敵で素敵でたまらなかったその微笑みが、急にしょうもなく思えてくる。さっき列車が発車した瞬間に、私の中ではこの男との関係は終わっていた。自動ドアが閉まって、互いに触れることができなくなったときにすべて終わったのだ。にもかかわらず、どうして今こうして並んで座っているのか、分からなかった。これなら列車が動き出した瞬間に、さっさと帰っておけばよかった。戻ってきても無視をすればよかった。それから何よりも苛立つのが、あれだけの別れをしたというのに、今でも自分の女みたいな風に、自信満々に微笑みかけてくるこいつの顔だ。目が合って、微笑んでくる。きもちわる。病気か。女がいたらとろとろした表情にならずにいられない病気か。この期に及んでのこの男の振る舞いに、私は段々と腹が立って抑えられなくなってきた。今まで抑え込んできたこの男への怒りが、腹の底から湧き上がってくる。禁断の果実? 奇跡の出会い? はあ? なんだよそれ。そもそもこいつが私の住んでいる田舎街まで、執筆活動だかなんだか知らないけどやってきて、それでなんてことないきっかけの合コンで出会ったわけだけど、その時からこいつ妻も子供もいたんだよな。ていうか、私は知らなかったよ。別に自分から聞いたりしなかったからあれなんだけど、それで何度か二人でデートして、何度かそういう関係を結んだ次の日の朝に、おもむろに結婚指輪なんか取り出して指に嵌めてきてさ。自分は結婚してますし、結婚していることを隠してませんよ? みたいな態度で接してきたけど、あれって、いったいなんだったの? まじでなんだったんだろ? そうだ私は、あの時にちゃんとこいつをぶん殴っておけばよかったんだ。むしろぶん殴らなければいけなかったのだ。なのに変に大人ぶって、こんなの訳ないみたいな顔して、へー、オサム結婚してたんだ、って。自分が騙されたのを認めるのが悔しくて悔しすぎてたまらないからそんな風に、自分を偽って、傷ついた自分のことを見て見ぬふりをして、大人ぶって素知らぬ態度をとったりして、なんならそんな不憫な自分にも酔っていたかもしれない。そんな私を、こいつをその時にぶん殴らなかった私を、私は思い切りぶん殴りたい。ぶん殴って目を覚まさして、気持ち悪いこいつの笑顔を、二度と私の前で見せないと誓うまでぶん殴りまくらないといけない。というか、今からでも遅くない。まじこいつぶん殴る。ぶん殴ってやる。ちょっと! 二度とこのいやらしい笑顔を私の前で見せるなよ。てっちゃん、ちょ、落ち着いてって! 謝っても絶対許さねえ、地獄に落ちろくそおやじ。痛い、痛いって!

1 2 3 4