小説

『野ばらと将棋と』月山(『野ばら』)

 野ばらが咲いている。
 大きな岩を囲むようにして、たくさんの野ばらが咲き誇っている。ああ、見事なもんだ、と男は微笑んだ。
 男は旅人である。ただ、どうにも方向音痴なところがあった。今晩の宿を探していた筈が、いつの間にやら人気のない山の中にいた。とはいえ当人は気にしていない。どうせ行く当てもない旅人だ、どこへ辿りつこうが困るものか、と。のんきな男は、この山で野宿をすることにした。橙色をした空を見上げながら、日が落ち切るまでに宿に到着できて助かった、と考えていた。男にとって、この山はもう、宿であった。山のように大きく、自分ひとりの貸し切りで、しかも金だってかからない。残念ながら飯は出てこないが、こんなに綺麗な花だってあるじゃあないか。男は自分の荷物から固いパンを取り出してかじると、野ばらを眺め、やはり微笑んだ。
 さてその時、男はふと気が付いた。岩だと思っていた物に、何か文字が書かれているように思える。古い物なのか、はっきりとは読みとれないが。これは自然の岩でなく、何か石碑のようなものなのか……と、そこで思い出す。そういえば、今男が旅している国と、その隣国との境に石碑が建てられている、と以前に聞いた。昔起こったという戦争よりも、もっとずっと前からある石碑であると。それではないだろうか? なるほど、古く見えるのも納得だ。さてそうなると、ここはちょうど隣国との境、国境であるのだろうか。
 ところで男は、国の中心部にある街を目指していた。国の内側へ向かって歩いていた訳である。さてさてここはどうやら国境である。国の一番外側にあるものである。内と外。正反対である。
 男はどうにも方向音痴なところがあった。
 まあそんなことは気にしないのんきな男である。パンと水だけの質素な夕飯もすぐに済み、そうこうしている内に辺りはすっかり暗くなっていた。一応手元を照らせるランプも火も用意はできるが、明るくして何をしようということもない。明日も元気に旅をするために、男はさっさと寝ることにした。明日こそ街に行って、旨いと聞いた料理を食べてみたい。それとも、このまま国境を越えて隣国を見物に行こうか。向こうの国は昔の戦争以来貧しくなったという話だが、綺麗な景色が見られるらしいから。ああ、でも綺麗といえばここの野ばらもひどく綺麗で──。と、考えている内に男はぐっすりと眠っていた。

 ぶん、ぶんという小さな音。

 男は深い眠りから覚醒しつつあったが、まだ目は開いていなかった。閉じた瞼の向こうから、聞こえてくるあの音は何だろう。脳内に、見事に咲き誇る野ばらが浮かび上がる。花。ぶんぶんという音。ああ、きっとあれはミツバチの働く音であろうと男は推測した。
 やがて目を開けた男は、自分の推測が正しかったことを知る。

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