小説

『せめて別れ際だけでも美しく』ノリ・ケンゾウ(『列車』太宰治)

 列車がプラットホームに到着し、ドアが開いた。列を作っていた数名の乗客が、ぞろぞろと中へ入って見えなくなる。列の最後に並んでいたオサムも、続いて車内の中へと入っていく。ホームと列車の間の隙間をまたいで、完全に体が車内におさまったところで、オサムが体を翻して、私たちは向き合う形になる。じゃ、行くよ。うん。まもなく発車を知らせるベルの音が鳴ろうとしていた。ドアはまだ開いている。車内にいるオサムは、目を細めて私を見つめる。私もオサムを見つめ返した。冬の風が冷たく、突き刺すような寒さが肌に痛かった。そんな私を見て、寒いよね、ごめんね、と、オサムは苦しそうに言う。ううん、大丈夫、だって最後だもの、少しくらい我慢するよ。私が強がると、オサムは優しい笑顔で私の頭を撫でた。オサムに頭を撫でられると、寒さで震える体が、少しあったまるような、安心するような、不思議な感覚になった。一筋の涙が、頬を伝って、顎の先から滴を落とした。泣かないで。オサムの声に、涙がさらに溢れてきた。離れたくない。まだもう少し一緒にいたい。今までこの駅で、オサムが遠くへ行ってしまうときなどには、寂しくて涙を流していたけれど、今回だけは違う。オサムとは、もう二度と会えないのだ……。
 妻子いるオサムと恋愛をしている以上、いつかはこんな日が来るのではないかとは思っていた。けれど二人でこの場所で、この土地で過ごした日々は、そんなことを忘れてしまうくらい潤しい、そして甘くて、何より幸福な時間が流れていた。もしもっと二人が違う場所で出会えていたら……私たちはきっと結ばれていたに違いなかった。オサムもきっと、同じ気持ちだったはずだ。不倫がいけないことくらい、私だって分かっていたけれど、でも、愛し合う二人が、ただ愛し合うことを、いったい誰に止める権利がある? それがたったひとときの、夢のような時間であったとして、それが禁断の果実みたいに、食すれば必ず自分の身を滅ぼすものだったとして、そんなことが分かり切っていたとしてもそれを食することを抑えられないくらい、私とオサムが出会った瞬間に互いが感じたものは端的に言って「奇跡」だった。あんなに胸がときめいたこと、生きてきて一度だってなかった。そんな奇跡をオサムが私に提供してくれたのだ。これって奇跡かな。そう言いながら、ベッドの上で煙草を吸うオサムは最高にセクシーだった。うふふ、これが奇跡じゃなかったら何が奇跡? と私は笑って、オサムの胸に顔をうずめて、そのまま寝てしまったりもした。年齢差はあったけれど、他の同世代の男の子にはない魅力がオサムには沢山あった。知的な話をしているときはすごく格好いいのに、反対に甘えてくるときは、まるで子供みたいににこにこ笑うのが可愛かった。楽しい日々を思いだせば、きりがない。けれどもこれで本当に本当に最後、禁断の果実は、やっぱり私の心を滅ぼすものだったし、これ以上は、もう本当に本当に、一緒にいられない。オサムだってそう思っている。口では寂しいと言っているけれど、本当は私から別れを切り出されて、内心では安堵したはずだ。オサムは優しいから、きっと私が言い出さない限り、別れを切り出せないはずだった。でも、この人には、大好きな夫を待つ妻と、大好きなお父さんを待つ子供がいる。これ以上は、やっぱりもう無理だった。

1 2 3 4