小説

『親指の。』かがわとわ(『王様の耳はロバの耳』)

「塔子。夢じゃないわよ。昨日の夜のことは、夢なんかじゃない。ね、お父さん」
 スタンバイしていたかのように現れた父が、母と並んで念を押すようにうなずいた。
「心せよ、だ」

「おじいちゃまの親指には、目がある! 碧(あお)い目がある!!」
 半月も経たずに我慢の限界に達した私は、両親の留守を待ち構えて叫んだ。吐くように吼えた。床の間の壺に、顔を突っ込んで。
 あの、瞳。私を映してくれた一つ目。思い出すたびに体の芯がちりちりとする。もう、逢えないのだろうか。親たちは、連絡先を知っているはずだ。ずっと先、私が子どもを産んだら、また訪ねて来てくれるのだろうか。おじいちゃまに逢いたい。親指の目に、逢いたい。あの日、別れる前に、もう一度だけ見せてもらえばよかった。触れたかった。応えて欲しかった。
「親指の目に、逢いたい! 逢わせてよう!」
 叫んで叫んで荒い息のまま、速攻で壺の口にビニール袋をあてがうと、逆さに振って、秘密を回収した。袋の口を堅く結んで自室に隠し、ゴミ収集日に見つからぬように持ち出すと、通学路を迂回してネットに滑り込ませた。潰されないように、端っこにそっと。清掃車のローラーは、秘密の言葉を取り込んだ刹那、バラバラに砕いてくれるだろう。

 しばらくして、カラスが初老男性を襲う出来事が続いた。手袋をした人ばかり、左手を突(つつ)かれて引っ張られるという奇妙なものだった。被害に遭った人は、口を揃えてカラスは二羽で、協力しているように思えたと言った。両親は何かを察したようで、「辛かったら、私たちに言いなさい」と、憐れむように忠告して来た。
春が来て、手袋をした人が誰もいなくなると、カラスの噂も消えた。私たち家族も、忘れたかのように口にしなかった。

 大人になった私は、秘密を共有してくれる夫と巡り合い、子どもを産んだ。男の子だった。三歳になると左手親指の爪が落ちて生えてこなくなり、目らしきものが形成されてきた。五歳の今、彼の親指の目は、しっかりと私を見上げている。祖父の親指の目とそっくりだ。碧(あお)く麗しく奇怪である。そして、少し色っぽい。あどけない息子を置き去りにして、親指の目だけ別人格のように男の色を帯びて来る。丈夫な医療用テープでぐるぐる巻きにしている。子どもの遊びは、絆創膏が剥がれやすいから。幼稚園の先生には、親指を噛む癖があるのでしつけのためと伝えてある。誰にも言うなは、子守歌から刷り込み済みだ。一族の事情を話すのは、彼に大人の印が現われるのを待ってから。私がそうだったように。
 この目を、祖父に見せてやりたかった。さぞや喜んだことだろう。祖父にはあの夜に会ったきりになってしまった。三、四年に一回、どのあたりにいるという知らせを親たちが受けていて、途中からは私にも教えてくれるようになった。最後の知らせも、入院しているという病院から本人がしてきた。母が到着した時は、意識がしっかりしていて、親指には絆創膏もあった。それなのに、数時間後に急変してあっけなく逝ってしまったという。その翌日に息子は生まれた。祖父が元気だったら、確かめにやって来ただろうに。
「男の子が生まれたと聞いたけれど、本当にそうかって」と。
 息子は、祖父によく似ている。口の周りを撫でるしぐさも、カラスが苦手なところも。

1 2 3