小説

『最後の真珠』三星円(『最後の真珠』)

「あんたは人前で泣いちゃだめよ」ってママからきつく言いつけられていて、それは男の子だからとかみっともないからとかそういう理由じゃなくて、ぼくの涙が宝石だからだ。
 はじめてぼくの涙が結晶化したのは牡蠣を食べたときだった。まだ伊豆の別荘があったころなので小学校に入る前だと思う。海に面した国道沿いには新鮮な魚介類や炙った干物を食べさせる店がたくさんあった。酔っ払ったパパが貝がらを割って、なまの牡蠣をつまんでぼくの口の中に放り込んだのだ。
「子どもにそんなもの食べさせて!あたったらどうするの」
「この子は幸運な子だから食中毒になんかあたりゃしないよ。どうだ、うまいだろ?」
 ママの怒る声とパパの笑い声が水の外から聞こえるみたいにくぐもって聞こえた。パパはよくぼくの口に手を運んで、パパがおいしいと思うものを食べさせた。塩で茹でた蚕豆とか、揚げた鮭の皮とか。パパの手はしわしわで指に毛が生えていて、パパの手からものを食べるのはちょっといやだったけど、エサを運んでもらうつばめの雛みたいにパパの手が口元にくると自動的にくちびるが開いてしまう。
 ぶよぶよしたおおきな牡蠣の身でむせそうになりあわてて奥歯で身をちぎる。ぶわっ、と海が口のなかに広がる。
「おいしい」
 ぼくははじめて味わう豊かなうまみにびっくりしてぽろりと涙をこぼした。こぼれた涙はきらめきながらしろくかがやき、木のカウンターの上で跳ねて床へ転がり落ちた。
 おちょこ片手にごきげんなパパはそれに気づかなかったけれど、ママは目ざとく椅子の脚のあいだから涙を拾い上げた。
 ママはぼくに『黙ってろ』と目だけで命令した。ぼくは目を伏せ、骨だけになったアジの干物にむかって頷いた。
「あんたも『真珠の子ども』なのね」
 パパが仕事に出かけ、家でふたりきりになると、ママはおごそかな声でそう言った。
「はじめての強い気持ちを味わって涙を流すと、涙が真珠みたいに結晶化するの。ママもそうだった。大丈夫、おとなになればほとんど発症しないから」
 ママはぼくのはじめての真珠を午後の陽に透かした。真珠のふちが橙色に光っている。
「これは『おいしい』の真珠かしら」
 ママは微笑むといらっしゃい、とクローゼットのお部屋へぼくを招き入れた。ハンガーに掛けられた色とりどりの服をかき分けるようにして進むといちばん奥にドレッサーがあり、そのとなりに当時のぼくの背より高い、黒い木でできた宝石箱があった。
 ここに入れておくわね、とママは宝石箱の鍵がかかる段の引き出しにそっと真珠をしまった。真っ赤なビロードの上で真珠がしろく光る。
 ママは表情を引き締めた。
「この真珠はとてもめずらしい宝石なの。これを狙ってる悪い人たちもいるから、あんたは人前で泣いちゃだめよ」

1 2 3 4