小説

『最後の真珠』三星円(『最後の真珠』)

 ぼくは悪い人を想像して震え上がった。この宝石を生み出させるためにぼくを誘拐するかもしれない。誘拐して、涙を出させるためにわざとぼくに痛い思いをさせるかもしれない。ぼくは必死になって「大丈夫。泣かない」と繰り返し、ママにしがみついた。
 それからぼくの涙はときどき結晶化した。サバンナの気球の上でパパと日の出を見たとき、フェンシングの大会の小学生の部で優勝したとき、憧れの先輩と手をつないだとき。
 ぼくは涙が出そうになるとあわててトイレの個室に駆け込んで、真珠を手のひらで受け止める。真珠はそのときどきで色味が違った。うすい桃色やあわいグリーンの光の帯が円となってしろい真珠をふちどっている。
「『真珠の子ども』が最後に産み出す真珠は特に貴重なの。それはうつくしい虹色をしてるから」
 手先の器用なママはぼくの真珠に穴を開けワイヤを通し、レースに編んだ。
「ママはどんな気持ちになったとき、虹色の真珠をこぼしたの?」
 ぼくの問いにママは答えず、曖昧に笑った。
「虹色の真珠を産んだときの感情をたいせつにしなさい。それは人生を支えてくれる大事な気持ちだから」
 真珠のレースの面積はぼくが大きくなるのと比例して広がっていった。
 トイレに間に合わないときは両腕で顔を覆ってうずくまって泣いた。手をつないでいた先輩はうずくまるぼくを心配して背中をさすってくれた。パパの手に似たおおきな手のひらだった。
 パパがぼくの口元に食べものを運ばなくなったのはいつごろからだろう。お屋敷を売り払ったころだろうか。小学五年生のとき引っ越した新しいおうちは、部屋をすべて合わせてもお屋敷のママのクローゼットより狭かった。なによりトイレがひとつしかないことに驚いた。
「ママ、このお家はひとつしかトイレがないよ。ぼくはどこでおしっこすればいいの?」
 ぼくが訊ねるとママは目に涙を浮かべた。
「ひとつのトイレをパパとママとあなたの三人で使うの。ふつうのお家はトイレがひとつしかないのよ」
 ぼくはびっくりした。ひとりひとりに専用のトイレがないなんて、なんだかパンツを共有するような恥ずかしさを感じた。ママはぽろりと涙をこぼしたがそれは固まることなく、ママの絹のブラウスの胸元にしみをつくった。
 中学に上がるころには夜、ふと目を覚ますとリビングからパパとママの諍いの声が聞こえた。聞いたことがないようなパパの荒々しい声とママの涙でぬれた声。マンションのおうちはひとつひとつの部屋がおもちゃのブロックみたいにくっついていて、話している内容はわからなくても怒りや悲しみは空気を震わせてすぐ伝わってくる。ぼくはふたりの話を聞く勇気を持てず、布団をかぶって空気をシャットダウンする。
 中学二年生最後の期末テストが終わった日だったと思う。昼過ぎに学校から帰ってくると、ママが花のかたちになるよう編んだぼくの真珠たちを撫でていた。ぼくとママが『真珠の子ども』であることはパパにも内緒にしていたので、ママが昼間に堂々と真珠を取り出していることにそわそわした。

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