あとはもういたちごっこだったそうです。一時間に一杯以上オーダーしなければならいというルールができ、まもなくそれが三十分になりました。マスターと会話しなければならない。隣の客と目を合わせてはならない。背もたれに背をつくな。チェイサーは150ml一杯きり。トイレは一人一回。ルールがつくられるたびに看板は上書きされ、店内にもびっしりと貼り紙がなされました。はじめてAを訪れた人はおどろいたことでしょうし、おそらく二度といこうとは思わなかったでしょう」
いつのまにか半睡で耳を傾けていた男の頭をしばらく無音が支配した。やがて顔をあげる。子守歌がとぎれた子が親の不在をおそれるようにそっと。
それでも、うとうとしていたことをごまかすそうとするのは酔客の常である。男はつとめて平然と話のつづきをうながした。
「以上ですよ。話をしてくれた見習いバーテンダーは二人とも暇を出されましたから」
「読書家たちは?」
「さすがに来なくなったようです。というよりも誰も来なくなったわけですが。もともと通っていたお客さんもすべて姿を消してしまったそうですから」
「閉店したのか」グラスの縁にわずかに残っていた塩の粒を見つめながら、男が独り言ちるように言った。
「いいえ。なにしろマスターはバーマンです。バーとともに生きる男ですから。いまでもひとりカウンターに立ち、丁寧に一本一本ボトルを拭きながらお客さんが来るのをまっているそうです」
暗がりにぽつねんと立つその姿を想像して男は身ぶるいした。「ごめん、トイレどこだっけ」
「さすがにドアにカギがかかっているわけではありません。ときおり、本当にときおりお客さんが足を踏み入れるそうです」
「悪い、先にトイレ」
「そんなときお客さんはなかなか帰してもらえないそうです」
「ねえ、マスター。ト・イ・レ」
「一度いかれましたが」
「そうだっけ。飲みすぎたかな」座面に根を張っていた尻を浮かせながら店の奥を適当にあごでしゃくる。「あっちだっけか」
「お客さん。ですから、トイレは一人一回なんです」
つまらない冗談だ。眉間の奥にぴんと痛みが走った。
「カクテルはうまいけど、ユーモアはロボットのほうがましかもしれないね」
そう言いながら男はカウンターの向こうに鋭い視線をむけた。口元にかわらぬ微笑をはりつけたバーテンターが手にしたボトルを拭いている。その背後、居丈高だったバックバーが暗闇に溶けていた。ボトルを拭きあげる白い布巾だけがやたらとまばゆい。
男はかたくまばたきをしてから店内を見まわした。光がない。いくら目を凝らしてもトイレどころか出入口のドアさえ見つけることができそうになかった。