小説

『注文の多いバーマン』幸村ゆずる(『注文の多い料理店』)

「古き良きという言葉、便利ですけどね。しょせん現在は未来の過去にすぎません。諸行無常というのでしょうか。なにが当たり前、常なる状態なのやら。ロボットに仕事をとられないようにこちらも進化しなければ。黙っていてもお客さんは変化するんですから」
 塩の輪はすでに四分の一が欠けている。自らの唇で秩序を乱したその白い輪を見つめながら、男はまぶたの重みと格闘をはじめていた。
「これも聞いた話ですが」
 視線を落とした男の気を惹くようにバーテンダーが言った。
「場所は横浜の関内、店の名前は仮にAとしておきましょう。他店について語るときには細心の注意が必要なもので。悪口に聞こえてお客さんの足を遠のかせてしまったのでは困りますから。良いバーテンダーの条件とはなによりもまず同業者の悪口を言わないということに尽きるのです。
 古き良き、この話をしてくれた人はAのことをまさに古き良きバーだとおっしゃっていました。古き良き、という言葉がなにをさすのか不明確ではありますが、話の筋には関係がありません。必要ならば好きなイメージを当てはめていただければと思います。タバコの匂いが染みついた壁とか、そんな雰囲気を思い浮かべるかたもいまでは少なくなったでしょうか。わたしですか? いいえ。いったことはありません。
 これはわたしなどが言うのもおこがましいのですが、Aのカウンターに立つマスターはバーテンダーよりもバーマンと言う呼称がしっくりとくる人物です。およそ半世紀をバーとともに歩まれてきたかたですから。若かりしころはホテルのバーで研鑽を積み、街場でご自身の店Aを開店してからも三十年は経っているのではないでしょうか。いいえ。いったことはありません。
 あるときAに大学生と思しき若い男性客の来店がありました。はじめて見る顔だったそうですし、六十をすぎたマスターにしてみれば子どもどころか孫のような年齢です。歳を重ねるとどうしても若い人に対する警戒心やら敵愾心が湧くものです。年功序列制の副作用かもしれません。嫉妬もあるでしょう。とにかくオーセンティックを自認するAのマスターにとっては、若い男の一見客などトラブルの種にしか見えません。そのうえ来店早々、席につくよりも前にトイレの場所を訊いたのがよくなかったようです。男が用を足して出てきたときには、もうマスターの眉間には深いしわが刻まれていました。それでもプロですから、やるべきことはやります。二人いる見習いバーテンダーの一方がおしぼりを渡し、もう一方が注文をとりました。男は迷うことなくジンリッキーをオーダーしました。その瞬間、険しかったマスターの顔がいくぶん晴れたそうです。暑い日だったようですから、ジンリッキーは時宜を得た選択でした。若いのに酒の飲み方を知っているじゃないかと、そう思ったのかもしれません。ボタンの掛けちがいなどそんな些細なことで修復されるものです。
 と、思ったのも束の間でした。男がスマートフォンを取り出したとたん、ふたたびマスターの顔が曇ります。大声で通話をはじめたわけでもなく、なんら問題のない行為だったはずです。ところがはじめの印象が悪かったせいなのでしょう、マスターはすっかり不機嫌となり、二人の見習いバーテンダーはひやひやです。男はカウンターの真ん中の席に座っていました。目の前にいるマスターの顔など視界にも入れず、スマートフォンに釘づけです。そのまま十分がすぎ、二十分がすぎても彼のジンリッキーは減る気配がありません。ちびりと口はつけるのですが、減らないのです。

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