「あくまで一説には、という程度の話ですよ。ただ、この靴に特別な力が宿っていることは確かです。かつての所有者の多くは、悲惨な運命を辿りました。例えば、とある所有者はプロのダンサーでしたが、舞台上で数人を惨殺した上、発狂してしまいました」
「……何それ。どうしてそんなことになったの?」
夫人が顔を青くして言うと、青年はにこりと微笑み、それからゆっくりと語り始めた。
「この赤い靴を手にしたことで、その女性の人生は一変しました。この靴を履いて舞台へ上がれば、誰もがその完璧な踊りに心奪われる。それまで脇役しか演じたことのなかった彼女は、あっという間に、舞台中央でスポットライトを浴びる一流ダンサーとなったのです。ところが、ある時困ったことになりました。彼女の新たな大舞台、そこで与えられた役は、白鳥をイメージしたものだったのです。さすがに赤い靴で踊るわけにはいきません。しかし、他の靴では、やはりいつものように踊ることはできませんでした。そこで、彼女は窮余の策として、赤い靴を白く塗ることにしたのです。そうして臨んだ本番当日、彼女は見事な踊りを披露することができました。……初めの内だけ、ですがね。演技が進むにつれて、異変が起こり始めました。彼女の動きは、錆び付いた人形のようにぎこちなくなり、そしてついには舞台中央でぴたりと動かなくなってしまいます。彼女は酷く狼狽えた様子で、ただただ立ち尽くしていました。そこへ、慌てて他のダンサーたちが駆け寄りますが、その時ついに、悲劇の幕が上がったのです。彼女は、突然バネが弾けたように飛び上がり、周囲の人間たちを襲い始めました。踊るように跳ねながら、蹴り付け、踏みにじり、靴で肉をえぐります。その力は凄まじく、数人がかりで押さえ付けても、容易に振り払われてしまうほどでした。ようやく彼女が動きを止めたのは、靴が犠牲者の血で完全に赤く染まった時です。そしてその時にはもう、彼女の精神は壊れていました」
青年が語り終えると、夫婦は思わず息をのむ。凄惨な内容であるにもかかわらず、青年の態度や口調があまりに穏やかで、それがかえって不気味に思えていた。
その時、不意に電話の音が鳴って、二人はびくりと反応する。鳴ったのは、老紳士の電話で、運転手からだった。
「……どうやら迎えが来たようだよ」
「……あら、そう。良かった。意外と早かったわね」
二人は苦笑いしながら顔を見合わせる。そして老紳士は、
「作り話か伝承か知らないが、面白い話だったよ。見事に時間が経つのを忘れた。まあ、さすがに買う気にはならないがね……」
そう言うと、夫人と共に屋敷を後にした。
それから、数日が経ったある日の夜。森の中の洋館に、夫人が一人で訪れた。
「ようこそ、おいでくださいました。今日はお一人ですか」
にこやかに出迎える青年に、
「ええ。この間は時間がなくて、ゆっくりできなかったものだから。今日は他の物も見せていただけるかしら」
「もちろんです。よろしければ、ご案内いたしましょう」