小説

『夜間清掃』日根野通(『シンデレラ』)

 気がつけば管弦楽団の演奏はワルツへと変わり、周囲の人々もパートナーと楽しそうに旋律に身をゆだねていた。
 頬が熱くなるのを感じた。一体何年ぶりだろうか。
 「はい、喜んで。」
 蚊の鳴くような声が良く出たな、と自分でも不思議に思った。
 以外にも自分は踊れた。相手のリードがいいのかダンス経験などないのに、足が動く。
 目の前の男性は柔和そうな顔立ち。この人も見たことがある気がする。昔、そう高校生の時に付き合っていた先輩。勉強も運動もできて優しかった。
 しかし、何故別れたのか。
 「他に好きな人ができたから。決して君の事を嫌いになったんじゃないよ。」
 今でも甦るあの声。困ったような表情。なぜ、他の女を選ぶのだろう。
 目の前の先輩に聞いてみる。
「どうして他の女を選んだの。」
「だって君、つまらないんだもの。見た目は小奇麗で大人しそうでいいけどさ。」
 突然無表情な人形のような顔になり男が言った瞬間、私は鏡の前にいた。
 遠くでメイン広場の時計が鳴った。

 また次の日も、次の日も私は鏡の中の舞踏会で夢に酔い、そして目覚めさせられるという日々を繰り返した。緑、オレンジ、赤。様々な美しいドレスを纏って、何人も男性と踊り、貴婦人達と交流し、時間の許す限り楽しんだ。そして太陽の訪れを感じる白みがかった空を見つめて、始発の電車に乗って帰る。魔法が解けたシンデレラのように。ただ彼女と違って高揚感と共に朝を迎える訳ではない。何か、いつも心に釘を刺されたような状態で帰路に就くことになる。
 ただ、その釘さえ見なければひと時の甘い時間に浸れるようになった事が私の気分を明るくしていたのは真実だった。私にとっては夜間清掃が生きがいになっていきていた。
 しかしながら周囲からは顔色が悪い、大丈夫か、という言葉をかけられるようになったのは不思議でならない。

 その日もいつも通りに夜間清掃を終わらせて例の踊り場に向かう。
 鏡に映った自分が少しぶれたような気がした。何か映像が重なったような。一瞬の事ではあったが。
 今日のドレスは白に近いシルバーだった。光沢があり所どころにスパンコールが散りばめられていて、シンプルながらも華やかさを失わないデザインだった。
 鏡の中の自分に手を伸ばす。ドレスが天井の光を反射しているのか、いつもの自分ではないように見える。また視界がぶれた。まるで故障しかかったテレビのように。
 今日はいつもよりお城の中は華やかさを増していた。最近知り合った貴婦人に理由を尋ねる。
 「今日は王子がいらっしゃるのよ。」
 今まで考えもしなかったが舞踏会には主催者がいるはずだ。その主催者はこの城の持ち主だ。王子様なんて何年も耳にしていない自分には縁のない言葉だな、と思う。しかし今の自分は20代に最も美しかった時の自分だ、もしかしたら王子様に見染められるかもしれない、そんな夢のような希望が頭をよぎった。
 淡い期待に胸を踊らせながら時を過ごしているとダンスホールの奥、大階段の踊り場に当たる場所にひと際高貴な人々が現れた。

1 2 3 4 5 6 7