小説

『スリーピングアイドル』柿沼雅美(『眠れる美女』)

 2階は安西が女と話している八畳と、恐らくは寝部屋が2部屋ほどしかなく、見たところ狭い廊下にも客間などなさそうで、宿とは言えまい。宿屋の看板は出していない。この家の秘密からしたら看板などだせるはずもない。こんなところがあったなんて、と言いそうになる。
40半ばくらの小柄の着物を着たこの女以外に人がいるように思えない。わざとゆるやかな物言いで、薄い唇を開かないくらいで口を動かし、安西の顔もあまり見ない。
 桐の火鉢にかけた鉄瓶に湯が沸く。煎茶の品質も加減も思いがけなく良いものだ。
 「女の子を起こそうとなさらないでくださいませよ。どんなに起こそうとなさっても決して目を覚ましませんから。女の子はふかぁく眠っていてなあんにも知らないのです」
 安西は色々な疑いがきざすのを口には出さない。
 「きれいな娘ですよ」
 安西は鍵を開ける女につられて息をつめた。女のなんでもない後ろ姿が怪しいものに見えた。帯の太鼓の模様に怪しい鳥が大きい。なんの鳥か分からない。これほど装飾化した鳥になぜ写実風な目と脚をつけたのだろう。
 「これが鍵でございますからゆっくりおやすみくださいませ。寝つきがお悪いようでしたら枕元に眠り薬が置いてございます」
 「お酒はないんですか?」
 「はい、お酒は置いてございません」
 「女の子は襖の奥にいるんですか?」
 「えぇ。もうよく眠ってお待ち申し上げております」
 その女の子はいつから部屋にいたのだろうか。富豪から聞いてはいたものの、出来事のほとんどが安西には信じられないものだ。
 着物の女が出ていくと、安西は煙草を2本吸って襖を見つめた。深呼吸ともつかない息を吐いて煙草を灰皿に押し付け、襖に手をかける。
 「わあ」
 声が出たのは、深紅のびろうどのカーテンだった。ほの明かりでその色はなお深く、幻の中に足を踏み入れた気がした。安西はカーテンを引きながら、眠っている女の子を見下ろした。
 眠ったふりではなく相当深い眠りのような寝息だ。思いがけない女の子の美しさに息をつめた。美しさばかりではないその若さのせいでもあった。こちら向きに左をしたに横寝している顔しか出ていなくて、体は見えないが15歳ほどではないだろうか。
 女の子は右の手首をかけぶとんから出していて、左手はふとんのなかで斜めに伸ばしているようだったが、その右の手を親指だけが半分ほど頬の下にかくれる形で寝顔にそって枕の上におき、指先は眠りの柔らかさでこころもち内にまがっている。なめらかそうな白い手だ。
 「起きないのか、おい」
 手を握り、これは一体誰でどういうことなのだろうと女の子を間近で見た。眉も化粧荒れはしれないし閉じた睫毛もそろっていて、女の子特有の髪の匂いがした。

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