和樹は上の空だ。トントンと指先でテーブルをたたくと、彼は顔を上げて生ビールとつぶやいた。沙織が大声で注文を叫ぶ。重なるように背後でドッと笑いが起きた。大学生らしき団体が馬鹿騒ぎをしている。
「一杯飲んだら帰ろうよ」
「あ、うん。いや」
突き出しのキャベツをかじりながら、沙織は眉間に皺を寄せた。ああ、私はもうこの人を好きじゃない。はっきり湧き上がった感情に泣きそうになる。和樹は背筋を伸ばすと、ようやく沙織と目をあわせた。
「あのさ、」
彼の言葉を遮るがごとく、ドンと大きな音とともにジョッキが置かれた。二人は乾杯することもなくビールを一口飲んだ。
「何よ?」
「うん、」
「……浮気でもしたの?」
「……いや、うん。あ、いや」
手にしたビールをぶちまけてやろうかと考えて、沙織は踏みとどまった。二人でいても、さっきからため息しか出てこない。この人と私はとっくに終わってる。
「ごめん。同期の子なんだ。好きだって言われて、ごめん」
そこは先に謝るんだ。沙織は思わず声に出して笑ってしまった。静かなレストランじゃなくてよかった。笑い声は後ろの馬鹿騒ぎに紛れて消えた。立ち上がった大学生らしき男がスーツケースに足をひっかけ、花束がばさりと床に落ちた。
「で、どうしたいの?」
「あ、うん」
花束を拾って膝に置くと、ビールを一気にあおった。小さな白い花たちを見下ろしながら、和樹と過ごした日々を反芻してみた。楽しかったことよりも、いらだったことのほうが多いような気がしてくる。
「つきあい始めた最初の誕生日にさ、花束がほしいって言ったよね」
「え?」
「けど結局、その時も次の年も、一度もくれなかったのよ」
「あ、うん、そうだったかな。いや、男が花束なんて恥ずかしくてさ、いやあげたいと思ってたよ」
「……別れようってことで」
沙織から終わりを告げたのは、意地ではなく義務感からだった。彼の部屋に転がり込んで居座ったのだ。とはいえ、浮気が腹立たしいことに変わりはない。財布から千円札を取り出し、テーブルにたたきつけた。和樹を置いて店を出ると、突風にあおられた。冬の空気が目にしみる。涙をぬぐい、肩をすくめた。
街はガラス張りのショッピングビルが並び、赤と緑に彩られている。その不躾な明るさを振り払おうと、沙織は白い息を吐きながら大股で歩き出した。
背後から、スーツケースのガラガラと騒がしい音が近づいてくる。沙織に追いつこうと、音はどんどん大きくなった。ハムスターの滑車みたいだ。グルグルずっと回ってる。なんて滑稽な音なんだろう。沙織は笑いながら立ち止まった。振り向くと、眉を八の字に曲げた和樹が立っていた。おずおずと、細長い形をした紙袋を差し出してくる。
「今日は漫画喫茶にでも泊まるから。あとこれ、お土産」
「何?」
「赤ワイン」