小説

『メリー、メリー、ラウンド』井上豊萌(『わらしべ長者』)

「あげるよ。タマシイだけのあなたに飲めるかわかんないけど」
 ボトルを鹿男の胸に押し当てた。トン、と動じることなくそれを受け取ると、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「ワインは大好きだ。赤のフルボディなら、なおいい」
「そ、よかった。って、やっぱり人じゃないよね?」
「そうだね、かつては人間だったけれど、今は誰かを幸せにするために生きている」
「人間だって、誰かを幸せにするために生きてるんですけど」
「そうだね、そうだった」
 鹿男は少し寂しそうな表情を浮かべ、沙織の隣に座った。マフラーを外すと、彼女の首に巻きつけた。
「マフラーと交換しよう」
 滑らかな布地は、羽衣みたいにふわりと彼女の首元に降りてきた。爽やかな香りが鼻をくすぐる。暖かさにほろりと心がほぐれていった。
「さ、家に帰りなさい。もう一度だ。ちゃんと何かに変えるんだよ」
 ワインボトルを夜空に掲げながら、鹿男は立ち上がった。足元から消えるんじゃないかと沙織は凝視したが、コートの裾をひるがえすと、歩いてどこかへいってしまった。
 何かに変える? 花束がワインに変わって、マフラーになった。わらしべ長者にでもなれと? だとしたら鹿男は観音様ってわけ? 妖艶な妖怪にしか見えないわよ、と沙織はマフラーに顔をうずめた。

 彼が最期に感じたのは、母の手の温もりだった。もう大丈夫だよと意識を放した刹那、彼は河原に立ち尽くしていた。せせらぎが、心地よく彼の心を流れていった。川幅は、対岸が見えないほどに広い。大小の石が敷き詰められた川底を、泥混じりの水がなめるように流れている。桃太郎や一寸法師のいる世界にたどり着いたのだと彼は悟った。
「親より先に死ぬのは罪だというが、人間は解釈を誤ることが多い」
 彼に声をかけたのは、金色の羽衣をまとった女性だった。かいしゃく、という言葉の意味は分からなかったが、彼は自分の人生が肯定されたのだと感覚で理解した。女性は目の前に広がる川へ険しい眼差しを注いでいる。その横顔に母を重ねて、彼は拗ねるように座り込んだ。もう会えないと思い出したからだ。
「ご苦労だった。お前の両親は、お前の生きようとした力に感謝している」
 だけどいっぱい泣いてるよ、と彼は立ち上がり河原の石を蹴り上げた。
「笑っててっていつも思ってたんだ。それだけでうれしいんだ」
「ほう、苦行ではなかったというのだね」
 気が晴れずに石を拾い、思い切り川へ向かって投げた。思った通りに身体が動いて、彼は驚いた。
「お前に健やかな肉体と魂を授けよう」
「戻っていいの?」
 女性はふうむとうなり、羽衣で彼を包んだ。
「お前はもう、お前であってお前ではないのだ。姿形は生きやすい大人となり、誰かを幸せにしたいという願いだけを持っていくのだよ」
 花の香りが立ち昇る。彼はそのまま目を閉じた。

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