揺れていたのは、ちっぽけな花たちだった。
待ち合わせした噴水広場に、鹿みたいな男が佇んでいた。えらくスタイルがよく、高貴な顔立ちをしている。手触りのよさそうなこげ茶のロングコートに、ボルドー色のマフラーを合わせている。彼のまわりにはぽっかりと空間ができていた。近寄りたくないが、空いてる場所はここだけだ。沙織はライトアップされた噴水を背にして座り、スマホを手にした。
人とは違うタマシイに、彼女は慣れている。
例えばエレベーターで、ふとした瞬間によぎる沈黙。混み合う電車で見かける、誰も座らないシート。見えないタマシイが遊んでるのよ、と母の言葉を思い出す。母が死んだ日から、沙織にはその姿が見えるようになったのだ。
鹿男は右手にかすみ草の花束を握っていた。夜空を見上げ、星を探しているようにみえた。と、優雅な動きで沙織の隣に座り足を組んだ。森に佇む鹿みたいだと沙織はこっそり観察した。
形のよい耳に長い首。肌は陶器のように滑らかで皺ひとつない。小さな顔に大きな瞳がおさまっている。映画のスクリーンから抜け出してきたかのごとく、名俳優みたいなオーラを放っている。
彼の白い息が夜空に向かって吐き出された。まさか人間? 沙織は大きく目を見開いた。視線に気づいた鹿男がこちらに首をかしげた瞬間、彼女はスマホに目を落としごまかした。昨日、駅のホームでタマシイと目があったばかりだ。延々と愚痴を聞かされ迷惑をこうむったのだ。
仕事でむくんだ足をもみながら、スマホをにらんだ。和樹はまだ来ない。だから家で待ってると言ったのだ。いまどこ? とメッセージを打ち込んだ。出張帰りに直接行くから、たまには待ち合わせしようよ。軽い口調とは裏腹に、彼の思いつめた表情に胸がざわついたのは、気のせいではなかった。この待ち合わせで、関係が良くも悪くも変わるだろう、と沙織は予感している。プロポーズされるのか、別れを切り出されるのか、まったくわからない。前者は期待で、後者は事実だ。わからないふりをしているが、たぶん今日、区切りを迎えるだろうと頭の片隅で理解している。
「これで幸せになれる」
低く落ち着いた声音に、沙織は顔をあげた。鹿男と目をあわせてしまった。琥珀色の瞳に吸い込まれそうになる。尋常でない美しさに、彼女は眉間に皺を寄せてあらがった。
「は?」
鹿男は動じることなく、澄んだ瞳に優しさをたたえ、柔らかな笑みを浮かべた。
「これを幸せに変えることができる」
彼のまとう香水なのか、かすみ草からなのか、爽やかな香りが沙織をとらえた。鹿男はガラスでも扱うかのように、そっと彼女の膝に花束を置いた。
「変えるんだよ」
かすみ草を見下ろした。くしゅりと丸まった白い花たちが、波しぶきみたいに寄り集まっている。小さな花が絡まりあった、控えめな花束。本物だ、と指先で触れてみた。花たちは心もとなく、ふるりと揺れた。