小説

『メリー、メリー、ラウンド』井上豊萌(『わらしべ長者』)

 隣にいた鹿男の気配がなくなり顔を上げると、すでに彼は姿を消していた。ろうそくが消えた後みたいに、ひんやりと風が吹き抜けただけだった。

 鹿男が鹿男になったのは、何十年も前の話だ。
 彼の人間だった記憶は、一枚の絵でおさまってしまう。
 日焼けした縁側と柿の木、その向こうに見える隆起した山々だ。布団の中から見える景色が、思い出のほぼすべてだったのだ。
 北風が柿の葉をくるくる揺らしている。踊ってるみたいだとぼんやりそれを眺めていた。と、母の顔が現れ視界が遮られた。
「下がらないわねえ。いいえ、もうすぐ下がるわ」
 母親は彼の額に手をあてると、その熱を吸い取りたいとばかりに、じっと動かなかった。秋風が身体にさわることは分かっていたが、日中くらいは外の空気を感じさせてやりたいという親心からだった。やはりよくなかったのかと自責の念がわいた。
「気分はいいよ、大丈夫だよ」
 彼は彼で、母の手がひんやりと心地よく、すぐに元気になれるような気がして目を閉じた。母から教わった言霊とやらを実践しようという心意気もあった。
 土間から父の声が聞こえた。
「行ってくる」
 するりと母の手が離れ、彼は物寂しさを感じた。布団から抜け出したいと、おもむろに身体を起こした。母の腰に寄りかかりながら土間に出ると、手伝いの老婆が靴べらを父に渡しているところだった。
「旦那さまは佇まいが清らかでらっしゃる」
 いつもの老婆の大げさな褒め言葉に、母と一緒に苦笑した。父はついと振り向くと、彼らを見つめて微笑んだ。
 父が連れ帰ってきたのは、彼と同じ年の女の子だった。父の弟夫婦が離縁することになり、そのごたごたを片付ける間までのことだったが、彼にはその事情を知らされてはいなかった。ただ友達ができたという喜びが湧いただけだ。
 日増しに衰弱していく彼にとって、彼女は縁側に差し込む太陽の光に似ていた。いつも縁側で遊ぶ姿を見ては、うれしくもあり妬ましくもある。けれど結局、彼女のまぶしさに目を閉じても、優しい温かさに心が和む。
 女の子の嬌声で、彼はまどろみから抜け出した。寝返りを打つと、母の背中と小さな女の子の横顔が見えた。
「これ、なあに?」
「頬紅よ」
 寝床からは、母と女の子が鏡台を覗き込んでいるのが見えた。鏡にうつった母と目があった。母は嬉しそうに振り向いた。
「加減はどう?」

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