小説

『メリー、メリー、ラウンド』井上豊萌(『わらしべ長者』)

 彼は力を振り絞ると、弱々しく微笑んだ。起き上がる体力はすでになかった。
「葡萄があるわ、食べる?」
「うん」
 食欲はなく、意識はもうろうとしている。うん、という嘘に母は潤んだ目で、それでも嬉しそうに手伝いの老婆を呼んだ。彼はこんな小さな言葉で、母を幸せにできるという切なさに胸が締めつけられた。母は涙を隠すため、鏡台に向き直った。人差し指で頬紅をすくい頰にのせると、化粧で明るくなった顔で微笑んだ。
 鏡越しに彼が見たのは、頬を伝う母の涙だった。笑ってて、と彼は薄れていく意識の中で願いを捧げた。

 クリスマス間近の噴水広場には、誰かを待つ人間たちが、それぞれの思いをたずさえ集まっている。
 沙織の目には、誰もかれもが微笑んでいるように見えた。彼女の待ち人である和樹は、くる気配すらない。ため息と一緒に、返事の来ないスマホをコートのポケットに押し込んだ。
 八年前の今日も、沙織は和樹の部屋で彼を待っていた。天寿を全うした母を見送った日だ。大学卒業間近の冬だった。葬儀がすみ喪服を脱ぐと、大学のサークルで出会った和樹の下宿先へと沙織は駆け込んだ。バイトへ行った彼を待ちながら、天涯孤独になったことを思い知らされた。着替えてきたはずなのに、母と一緒に燃やしたカサブランカの香りが残っている気がして、悲しかったことを彼女は覚えている。深夜遅くに帰ってきた和樹は、眉を八の字に曲げて泣くのをこらえ、無理やり微笑んだ。そして僕がいるよと頭をなでてくれたのだ。藁をもすがる思いで、彼女はその優しさに寄りかかった。それから八年、和樹は旅行会社で働き、沙織は花屋でバイトをしながら、ダラダラと同棲生活を送っている。
 さすがに今日はあの時のことを思い出す、と沙織は自嘲気味に笑った。もらったかすみ草に顔を寄せてみる。花の香りはしない。あのタマシイ、なんか似てたな。彼女は優雅で落ち着いた鹿男の雰囲気に、母の面影を垣間見ていた。
 視線を感じてあたりを見回した。人混みの中、悠々と歩いてくる和樹の姿をとらえた。遅れてきたのに呑気なものだ。倦怠期すらとっくに過ぎた同棲相手となんて、こんなもんだ。頬杖をつきながら、沙織は気だるく手を振った。
「遅い」
「人身事故があったみたいなんだ。困ったよ、電車が来なくて」
 謝るのが先だよと言葉を飲み込んで、ため息に変えた。時間にルーズな人に何を言っても無駄だ。和樹は沙織の苛立ちから逃げようと、彼女の膝にある花束に視線を落とした。
「売れ残り?」
「まあそんなとこ。早く行こう、寒い」
 花束を左手に持ち替えて立ち上がった。
「これに入れといたら?」
 旅行カバンを漁って、和樹は土産袋を一つ取り出した。中に入っていた菓子箱を取り出し、差し出してくる。こういうところは気がきくんだけどね。しわくちゃのビニール袋を受け取ると、潰れないように花束を入れて歩きだした。
 クリスマス間近の街は、どこもかしこも飲食店は満席だった。予約ぐらいしといてよと沙織は愚痴りながら店を探した。ようやく見つけた居酒屋で、和樹は狭い通路にスーツケースを置くと、椅子を引きながらスマホを開いた。沙織は隣に座り、花束をスーツケースの上にのせた。
「何飲む?」
「あ、うん」

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