小説

『流しのしたの』伊東亜弥子(『かちかち山』)

 ケーブルカーを降り他の人たちと同じように頂上に向かう山道をゆっくり上って行った。歩きながら男は昨夜用意していたときよりやけにリュックサックが重いなと思ったが、頭上に広がる生い茂る緑とその先の青に気持ちは広くなりあまり気にしなかった。妻の額にうっすら浮かぶ汗と口元に浮かぶ小さな笑みにそんなことはどうでもいいかという気分になっていた。
 いよいよ山頂に着いたとき、妻は自分のリュックサックから昼ご飯に作った、おにぎりを出した。何の変哲もない握った白米が男の目には輝いて見えた。お疲れさまーといって、おにぎりで乾杯してそれにかぶりつこうとしたとき、ちょっといい、と妻は男のリュックサックに手を伸ばした。何だろうと思っているとちょっとだけ気まずそうに、でもにこにこと嬉しそうな顔をして右手におにぎりを左手にリュックから取り出した缶ビールを持って幸せそうに笑った。
 また酒か、と思ったがその顔を見たら男は何もいえなかった。酒以外で何かと思っていたが、晴れた日の山の上なんて酒に絶好の機会を与えてしまっただけだったかと思いながらも男は米の甘さを噛みしめて少しばかり泣きそうだった。妻はあまりにも幸せそうにビールを飲んでいた。

 家に帰って風呂から上がった妻が背中を見て欲しいといった。何だかとても痒い、といって届かない背中を掻きむしったように爪の跡が細く赤い線になってたくさんある。風呂上がりの熱で赤くなっている肌と赤い線を避けてみるように顔を近付けて見ると小さなあせものようなものが出来ていた。重いリュックサックを背負って山道を歩いて汗をかいたからだろう。
 そう伝えると妻は背中を捲ったままの姿で立ち上がり、化粧棚から保湿用のクリームを持ってきた。これ、あせもにも塗っていいの、と聞くといい匂いだから大丈夫でしょうと脈絡のない答えが返ってくる。まぁ炎症しているところに塗り込むわけじゃなし、大丈夫かとクリームを手ですくって背中に付けようと思ってふと手を止めた。
ねぇ、と妻に声を掛ける。なに、と答える。これ塗らないと痒いよね。そうだね、痒いね。痒いとよく眠れないよね。そうね、痒くて起きてまた背中掻いちゃうかもしれないね。あのさ、お酒飲んで余計に汗かいてこうなったんじゃない、そういうと妻は何も答えなくなった。代わりに小さくため息を吐いたのが背中の動きでわかる。一週間くらい飲むのやめたら。答えはない。最近、飲みすぎでしょう、ね。まだ黙ったままだ。聞かぬが勝ち答えぬが勝ちという空気が背中から立ち上っている。男は心を鬼にしていう。一週間飲むの我慢するって約束をしなきゃこのクリーム塗らないよ。えっ、と意外なことをいわれたという感じで妻が振り返った。何をいっているんだという顔をしているが、男の顔を見てそれが冗談ではないということがすぐにわかる。長いこと夫婦をしていれば何となくそうであることがわかる。
 妻は一瞬深く息を飲みゆっくり吐き出してから重々しく、わかったといった。男はそこまで重みを持っていわねば決意出来ないことかと半ば呆れ半ば心配しながらクリームを両手に付けて微笑んだ。
 けれどもその翌日、男が帰宅すると妻はいつも通り酒を飲んでいた。だってね、今日ちょっと仕事で疲れたから、妻は笑ってそういった。男も笑い返した。笑いながらこころのなかではいよいよこれはだめじゃないかと思って少しだけ泣いていた。

 二人の休みが合った次のときには大きな公園に行こう、と男は妻の背中にクリームを塗りながら話していた。なかなか休みの合わない二人だったが、その日は案外早く訪れた。

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