小説

『流しのしたの』伊東亜弥子(『かちかち山』)

 ただいま、といって妻の顔を見る。顔は赤くない。まだ飲みはじめたばかりなのだろうか。おかえり、と妻は返す。また飲んでるんでしょ、ほどほどにしなね、というと妻はリビングに向かいかけていた男の腕をぐいっと掴んだ。男は驚いて妻の顔を見た。
 飲んでない。今日は飲んでないよ。今日、というかあのボートの日から飲んでないよ。妻は真面目な顔でそういった。
 男の頭にはすぐにあの日の夜中の妻の姿が浮かんだ。口にしなければいいものを先に言葉が出ていた、でもあの日夜中に……、そういうと妻は見てたんだと少し緊張したような顔になった。あれが最後のお酒だよ。もったいないことして悪いとは思うけど、こうした方がいいのかと思ったから。もったいないからあのボトルを開けていたということだろうか。男の頭のなかで話が上手く繋がらなかった。
 首を傾げていると、見てたんじゃないの、流すところと妻はいった。流すところ、と男が繰り返すと、妻は流しの下の酒を見ろと力強く叫ぶようにいった。
 子どもの頃、祖母に読んでもらって怖かったと結婚前に妻に話したことがある昔話の台詞みたいだと男は思った。もしかして流しの下に骨があるのかと思うとぞっとした。あの日、泣きながら酒を飲んでいたのは自分にもいえないような何かそういう恐ろしいことをしてしまってどうにもならなくなっての涙だったのかと男は一瞬のうちにそこまで考えた。
 そして妻に促されるまま、流しの下のストッカーを開けた。そこはぽっかり暗く、何もなかった。骨はもちろん、そこにずらりと並んでいた酒の瓶も。
 流しの下の酒、そういうことかとやっと男は合点がいった。あの日、最後に少し飲んでから、あとは全部流して捨てたの。妻はいった。しばらく飲むのやめます。しばらく、と男は繰り返す。また飲みたくなったら飲むとは思うけど、そうしたらまた叱って、妻はいう。
 男は呆れたようなまだ不安が胸のうちで綿埃のように浮遊しているような何ともいえない気持ちになったが、それもすべて小さく手を握ってくる妻への愛おしさで掻き消されてしまった。わかった、男はいう。いいながら自分の甘さを怒りたくもなっている。
 泣きながら夜中に酒を捨てる妻の姿を思いながら、またそんな日が来なければいいと思っている。

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