小説

『流しのしたの』伊東亜弥子(『かちかち山』)

 なんでそうなった、男は半笑いでいった。ちょっと指入れて見たらこうなった、と話す妻の顔はもうちょっと酔いが回っている。ねぇ、どうしよう、どうしよう、鯉が離してくれない。離してくれないも何も鯉は口ぱくぱくしてるんだからその隙に指引っ込めればいいでしょう。というかそんな強い力で食いついてきてないでしょう。妻は首を横に振る。すごい力、鯉、すごい力、しかも代わる代わるいろんな鯉が食いついてきてる、どうしよう。
一段強く食いつかれたのか、ぎゃーと妻がさっきよりも大きな声を上げる。周りにいるボートの人や池の近くを歩いていたひとたちがその声に驚いてこちらを見る。
 ぎゃー、鯉がー、ひー、と妻はボートの淵でじたばたしはじめる。おい、ちょっと落ち着けよ、揺らすなって。男はぐらぐら揺れるボートの淵を少し掴んで妻に宥めるようにそういうが、だって鯉が鯉が、と半ばパニックになっている妻にはその声ももう半分も入ってこない。
 男は手にしていたオールで鯉の群れを掻き分けた。鯉たちは迷惑そうな顔をして、それでもまだ妻が手を出している辺りから離れようとしない。うちの妻の指はそんなに旨いのかと馬鹿みたいなことを思いながら、水から手を上げろってと妻にいう。あー、とかうー、とかいいながら妻は鯉を振り払うようにして何とか鯉から逃れた。
もうボートを返す時間だ。急いでオールを漕いで男はボート乗り場に戻った。
 騒いでいたのが乗り場の係員まで聞こえていたのか、ボートを返すとき何かありましたかと尋ねられた。いやぁ、別に……と男がいいかけると飲酒されてますねと妻の方を訝しげに見ていった。
 困りますよ、ボート上での飲酒は禁止ですよ。お花見気分で来られて飲みたくなるのはわかりますけど、飲んでらっしゃる方へのボートの貸し出しはみんなお断りしてるんです。乗るときに気付けなかったこちらの責任もありますけど……。酔っ払って池に落ちたりとかする方もやはりいらっしゃいますんで。今度いらっしゃるときは絶対に飲んだ状態では来られないでくださいね、わかりましたね。
 まさかボートの上でビールを開けたともいえず、おそらくは十くらい年下の青年に顔を覗き込むように叱られて妻はさすがに申し訳なさそうに小さな声ですいませんと繰り返して俯いていた。
 いつもならそんなことがあった後でも、怒られちゃったね、あははと笑って見せる妻だったが何か思うところがあったのか落ち込んで萎んでしまっていた。

 家に帰ってからもその日の夜はご飯時にも酒を飲まなかった。さすがに反省しているのかなと男は思って何だか少しかわいそうな気持ちにもなっていた。
 翌朝が早いからと先に寝た男が夜中にトイレに起きるとまだリビングの電気が付いていた。あれ、と思うと妻がソファに座っている。まだ寝ていないのか、テレビでも見ているのかとそっと様子を窺うと何もついていないテレビをまっすぐ見ながら妻は酒を飲んでいた。八割くらい残っていたはずのボトルの中身が半分以下に減っている。
 早く寝なよ、と声を掛けようかとリビングの入口に近付いたが、そこで妻が泣いているのが見えた。声をあげるでもなく零れる涙を拭うでもなく、ただ静かに涙を流しながら酒を飲んでいた。
 男にはその涙の意味がわからなかった。わからなくて妻のことがこわくなった。何も声を掛けられなかった。なるべく音を立てないようにトイレに行きベッドに戻ったがそれからしばらく眠りに戻れなかった。

 部屋に近付くと音楽が流れてきているのが聴こえた。ここ二日、夜中にひとりで泣きながら酒を飲んでいる姿を見て以来、妻は酒を飲んでいないようだった。けれど、こうして音楽と唄声が一緒に聴こえてきているということはついに我慢がならなくなってまた飲んでいるのだろう。まあ休肝日を持てるようになっただけでも進歩かと思いながら男は玄関の扉を開けた。

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