小説

『流しのしたの』伊東亜弥子(『かちかち山』)

 部屋に近付くにつれ聴こえてくる音楽に男は軽くため息を吐いた。
 また盛大に飲んでるな、そう思って一日の疲れが貼りついて消えない重い足を引き摺るように歩き、玄関の扉の前に立つと至極機嫌のよさそうな唄声が耳に入ってくる。抑揚のない子どもが唄っているみたいな唄声。そういうと妻はいつも怒った。あなたよりかは上手いでしょう、と。
 扉の鍵穴に鍵を差し入れノブを回して意を決したように勢いよく、ただいまと扉を開ける。玄関を入るとすぐのキッチンで案の定、妻は赤い顔でちぎったレタスを片手に持っていた。おかえり、と一言答えてはまた流れる音楽の続きに乗り出す。唄うばかりではなく、曲の合間に拳を振り上げウオイウオイとゴリラのような声を出したり、おそらく本人は踊っているつもりなのだろう、妙な動きをしながらご飯仕度をしている。傍から見ているとどうにも滑稽だが、当人はいかにも幸せそうだ。曲が終わるとグラスに残っていた少しの、今日は白ワインだろうか、をぐいっと飲み干した。そしてまたつぎ足した。
 ねぇ、もうそのくらいにしておけば。まだ月曜だよ、しかもご飯前に飲みすぎてない。そういう男の頭のなかにはこの間妻がこっそり隠していた健康診断の結果が浮かんでいる。今すぐにどうこうという悪さではないけれど、ここ最近増している酒量のせいか腎臓とコレステロールの数値があまりよくない。アルコール依存になりかねないとの医師なのか保健士なのかわからないが、手書きの診断も書かれていた。別に飲むのは構わないが体を壊してしまうのは、それは違うだろうと男は思っていた。
 仕事を辞めたいのに上手く辞められずストレスが溜まっているのも知っている。それを晴らす為に好きな音楽を聴きながら好きな酒を飲むのは悪いことではないし、むしろ鬱屈としてしまうより十二分にいいことだとは思うけれど健康を害するようになってしまってはミイラ取りがミイラになるというものだ。
 隠しておいた健康診断の結果をそっとテーブルに置かれ男から静かにされるお説教を妻はしゅんと背を丸めて聞いていた。わかってはいるんだけど、でもつい飲んじゃうんだよね。そういって涙目になっている妻の何を責められるだろうか。
 それからしばらく休肝日を作ったり量を減らしたりしていたが、数ヶ月経った今、また元に戻ってしまった。風呂に入る準備をしながら男はよし、とこころのなかで小さな声を出した。そして風呂から上がると、週末は山に行こうと妻に提案した。
 何か酒を飲む以外に気が晴れるようなことはないだろうかと考えた。普段しないことをしてみたらいいのではないだろうかと男は真面目に考えた。思えば休みの日は寝てばかりか漫画を読むかゲームをしているかの二人で、一緒にどこか遠出をしたのなど付き合っていた頃のことばかりで結婚してからはあまりなかった。たまには体を動かすようなことをしたらどうかと昔、一度二人で行ったことのある山に行こうと提案したのだった。妻は最初どうして今さらといったが、それでもたまにはいいかもねとすぐ乗り気になった。

 久しぶりの山など、日頃家のなかにばかりいる二人の体力は果たして大丈夫だろうかと思ったが、山の途中までケーブルカーで行って、山頂まで小一時間程で行ける道があったのでそのルートを選んだ。ケーブルカーに乗ると随分昔にその山に行ったときの記憶も蘇り、二人は傾斜の一番きついところで顔を見合わせて笑った。そうだった、こんなふうだったね、と。

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