小説

『流しのしたの』伊東亜弥子(『かちかち山』)

 ちょうど桜の咲きはじめた頃、二人は近くの大きな公園に出掛けた。花見客で混雑しているかと思っていたが、まだ咲きはじめだからかそこまで人は多くなかった。
 大きな池があることで有名なその公園、そこのボートに乗ると別れるという話は昔からいわれていることだったがそれを知ってか知らずか、妻はボートに乗ろうといった。男は少し躊躇う気持ちもあったが、もう夫婦になっているのだしと思い頷いた。
 妻はスワン型の足漕ぎボートがいいといったがそれはもう全部出払ってしまっていて二人は手漕ぎのボートに乗った。日差しは穏やかでまだ開ききらない桜の蕾が池の淵に頭を垂らして小さな影を落としている。平和極まりないその情景のなか他愛のないことを話し、男はいかにも牧歌的な気持ちになっていた。ボートの貸し出し時間が終わる後ちょうど半分くらいのときに、妻は急にごそごそと鞄のなかから何かを探すような素振りをしはじめるときまでは。
 こんな天気のいい暖かい日に妻が我慢出来るはずがないとは思っていた。けれど乗ってもそれを取り出す様子がなかったのでさすがに今日は持ってこなかったろう、帰りに飲んで帰ろうとはいうだろうなと思っていたが、やはり持って来ていたか。
 男の予想通り、妻が鞄から取り出したのはビールだった。ちらと鞄のなかを見るとちゃんと保冷バッグに入れて持って来ていたようだ。確信犯め、とこころのなかでため息を吐く。ねぇ、ボートの上で飲んじゃいけないんじゃないのと男がいったそのときには妻はもう缶を開けていた。わぁ、持って歩いてたから振っちゃったかなと泡がどんどん溢れてくる缶に嬉しそうに口を吐けている。濡れた缶を拭きながらそのままハンカチで缶をくるりと包んでこれで大丈夫でしょと悪びれずに笑う。男は何も返す言葉もない。
 結局、妻が楽しそうなら何でもいいのだ、そう思うけれど何かに寄り掛かっていないとだめになるような楽しそうでは不安なのだ。もともとお酒が好きなのは知っている。結婚する前からも家で一人でよく飲んでいたのも知っている。それはそれで構わない。自分だってたまには酒も飲む。でも最近はずっと飲んでないか、そう思うと不安になるのだ。
 他人と比べても仕方がないかもしれないが、その量は、飲み方は普通といっていいのか。酒好きの友人に聞くと、嗚呼そんなもんだよといわれるが男は不安で仕方がなかった。
 酒が大好きで、酒に飲まれて、いつしか酒がないと暴れるようになっていた叔母を知っているからだ。妻にその叔母の話をしたことはない。自分が子どもの頃の話で、叔母は今ではもう酒を断っているし、特に話すこともないと思っていたからだ。それでも最近では自分が子どものときに見た叔母のいつもとは違う姿を思いだし胸に澱みが生まれるのだった。
 そんな男の気など知る由もなく妻は幸せそうに二本目のビールを煽り、いい天気だねぇ日に焼けそう、なんて呑気に呟いている。
 男がぼんやりしていると急に妻がぎゃっと大きな声を上げた。ぱっと視線を落とすとボートの淵から池のなかに手を入れている妻がいる。泣きそうな顔をしてこちらを見ている。
 ねぇ、ちょっと鯉がわたしの指食べてる、どうしよう。見ると餌を持っていると勘違いしたのか、あるいは妻の指自体を餌だと思っているのか鯉がわらわらとそこに集まってきており、一匹の鯉が必死に妻に指に喰いついている。

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