「そうだ、ぼくと一緒に食べてくれない?」とぼくは言った。「そんなに食欲はないけど」
魔女は無言で頷いてから椅子に座り、ティッシュペーパーでスプーンを拭いてカレーを口にした。彼女は月の光に照らされているみたいに、淡い輝きの中で超然としている。
「また元の世界でカレーを食べたいんだ。近所のファミレスにあなたと行ければいいのだけれど」
とぼくは言ったが、彼女は意思表示をしなかった。
「冬になったらスキーもあなたと一緒にしたい」とぼくは続けた。「ねえ、新潟に東京から日帰りで行けるスキー場があるんだよ。新幹線ですぐに着くし、道具だってレンタルできるんだ。つまり手軽に外で遊べるんだよ」
―そうなの、でもその話より今は食事をしましょう―
ぼくはもっとスキーの話をしたかったが諦めることにした。胃が食べ物を受け付けなくなっていたが、チャイを一口だけ飲んだ。体が温まり周囲がよく見えるようになった気がする。なんとか料理を3分の1食べると残りは魔女が完食した。
―もし君が望むなら、この世界で暮らし続けてもいいのよ―
「それはできない」と言ってぼくは即座に断った。この世界には家族や友人はいないし、ホテルの中だけの生活でもおかしくなりそうだ。
「ぼくにはまだ学校に通って家に帰る暮らしが必要だ」
―でも学校の授業なんて退屈じゃない?この世界で生活していれば、元の世界のことは少しずつ忘れていくわ―
「それで最後には全てを忘れてしまうの?」
―そう。スキー場の雪山の中みたいに記憶が真っ白に変わるの―
ぼくは元の世界の記憶を失った自分を想像してみたが、うまくできなかった。
「フロントにいた男も監禁されたことがあるの?」
―知らないわ、私が知っているのは河童だけよ。河童はあなたを助けたいみたい―
「でもぼくを助けると体の半分を奪われるそうだよ」
―そうだったのね。それなら君はすぐにここから逃げる必要があるわ―
「ぼくを逃がしてくれるの?」
―魔女は頷いてからぼくの腕を掴んでクローゼットの前に立たせた。
テレビが消え魔女の話すフランス語の字幕は、クローゼットの脇の壁に映し出されるようになった。
「どこへ逃げればいいの?」
―パリのリヨン駅からTGVに乗車してディジョン駅へ行きなさい。そこに元の世界に帰るための部屋があるから―
「どうやってパリに行けばいいの?」
―クローゼットの中を通っていくのよ―
ぼくがクローゼットを見ていると、背中に魔女の両手が当たる感触がした。押し出されるようにハンガーにぶつかった後クローゼットの中へ倒れた。全身がゼリーに包まれたような状態になり、暗闇の中を移動しているのがわかった。やがて冷ややかな風を感じ目を開くと凱旋門の前に来ていた。