小説

『河童の国』佐々木卓也(『河童』)

「そうだ」
「部屋の鍵をください」と言ってぼくは、机の上に中年男から受け取った印刷物などを置いた。
「鍵は後で渡すから今自分の置いた物を見なさい」
「この紙や筆記用具を使ってぼくに何をさせたいんですか?」とぼくは河童に質問した。
「英語文章の暗記だよ。リンカーンがゲティスバーグで演説したもの全部」と河童は言った。「その紙に出ている原文を見ないでも書けるようにしなさい」
「嫌ですよ」
「君は拒否できないんだ。ここでは、上からの命令に服従するしかないんじゃ」
「やらなかったらマズイことになりますか?」
「まず最初にワシが半殺しにされるよ」
 河童が可哀想に思えて、ぼくは英語文章の出だしを読んでみた。
「気持ちが変わったかい?」
「そういう事情ならやってみます」とぼくは諦めて言った。
 ぼくは英語文章を暗記するためその演説原文を再び読み始めた。ノートに書き写しながら声に出して記憶していくと、2時間が経過している。
「あのね、河童さん」とぼくはずっと同室に控える河童に言った。
「もう充分頑張ったから外出させてくれませんか?」
「ダメだよ」と河童は即答した。「一瞬も見逃さず職員が監視しておる」
「それなら早めにチェックアウトさせて下さい。英語文章を暗記しなくてもいいようにしてくれませんか?」
「それも無理じゃ」
「だったらぼくはいつ外へ出られるんですか?」
「それがねえ・・・」
「早く教えて下さい。学校の修学旅行に参加しているだけなのに」
「そうか、それはねえ、君がその文章を全部書けるようになってからだ」
 ぼくは座っていた椅子から転げ落ちそうになった。
「そんなに落ち込まないでおくれ、暗記して全部書けたら解放されるよ」
「でもね河童さん」とぼくは問いかけた。
「なぜぼくを監禁して英語文章を暗記させようとするんですか?」
「話せば長くなるんじゃよ。要は君にあの文章を暗記させてから、我々の母国語をマスターさせようとしているんだ」
「あの英語があなた達の母国語に関係あるんですか?」
「非常に我々の発音に近い語順で並んでいるんだよ。まず書けるようにさせてから発音を覚えさせるのさ」
 河童はそう説明してから、頭の上の皿を前後にさすった。

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