小説

『あなたはだんだんだんだんとてもすごくきれいになる』ノリ・ケンゾウ(『智恵子抄』)

 学校帰りに、どうしても見たい映画があって都心に行ったとき、少し顔がいかつくて上下真っ黒なジャージを着ている男と歩いているチエちゃんを見つけた。二人は仲良さそうに連れ添って、路地裏の方へ歩いて行った。私は見てはいけないものを見たような気がして一度は目を逸らしたけれど、このままチエちゃんが見知らぬ男の人とどこかへ行ってしまうのが耐えられなかった。そう思うと怖かったけれど体が勝手に動いた。二人の後を追い路地を曲がると、二人はある建物の中に入っていった。看板には「木下ボクシングジム」と書いてあった。二人に気づかれないように中を覗いてみると、一緒にいた男の人と同じく黒いジャージ姿に着替えたチエちゃんが、天井からぶら下がった黒いクッションのようなものを殴っている。パン、パン、とリズムよく音が響いているのが中から聞こえる
「これはね、クッションじゃなくてサンドバックっていうの。あとそのリズムはね、パンパンじゃなくて、ワン、ツー」
「ワン、ツー?」
「そう、ワンツー」
 外から覗いているだけのつもりだったけれど、ジムの中で動き回るチエちゃんと目が合ってしまい、チエちゃんに手招きされ、私は結局ジムの中に入ったのだった。
「ボクシングはじめたのよ、私」
 開口一番チエちゃんはそう言って、
「で、この人は私のコーチ」
と、隣にいる男の人を紹介した。私が、チエちゃんにかけられていた疑いのことを話すと、はは、ありえない、と言ってチエちゃんは手を叩きながら笑った。
「この人はただのコーチだよ、ただのコーチ。変な関係じゃないからさ、安心してよ」
 チエちゃんは私の肩をポンと叩いて、それからコーチの肩を叩いて、ねえー、と言った。コーチはチエちゃんの生意気な口調に困ったように顔をしかめたが、そのあと笑顔で私を見て、「まあとにかく、安心してね」と優しく言った。
それからしばらく、チエちゃんの練習をジムの端っこに座って眺めていた。バシッ。バシッ。と、チエちゃんがコーチの持つミットを打つ音がジムの中で響き、その鋭いまなざしでパンチを放つチエちゃんは、見ていたらなんだか涙が出るくらい、かっこよくてきれいだった。涙が出ると思って見ていたら本当に涙が出てきてそのままとまらなくて、最後はまるで赤ちゃんみたいに声をあげて私は泣いていた。これには練習をしていたチエちゃんもコーチをぱたりと動きを止めて、チエちゃんが私のところへやってきて、
「おーい、タエちゃん。どうしたの」
 と言いチエちゃんが私の肩をぽんぽんと叩き、「どした~」と言いながら肩を叩いていた手で今度は背中をさすった。私は途中からどうして泣いているのかも分からなかったから、何も言うことができず、ひっく、ひっく、と泣きじゃくるばかりで、チエちゃんは少し困ったよう笑ってから、コーチと顔を見合わせ、
「ねえ、女の子泣かしちゃダメじゃん」とコーチに向って言った。
「ええ? 俺のせい?」と驚いてコーチがこっちを見たので、ぶんぶんと頭を振って、「違います」と笑って答えた。
 それを見てコーチがほっと胸を撫でおろし、「ちょっと休憩するか」と言ってその場を離れた。
 チエちゃんと二人きりになり、散々泣きじゃくっていた私も落ち着いてきて、ようやくチエちゃんの顔を見ることができた。
「ごめんね、練習の邪魔して」
「いいのいいの、それよりごめんね。タエちゃん、私を心配してきてくれたんでしょ」
「ごめん。疑ってたわけじゃないんだけど」
「ううん、大丈夫。分かってる」

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