小説

『あなたはだんだんだんだんとてもすごくきれいになる』ノリ・ケンゾウ(『智恵子抄』)

 手にはめたグローブを外しながらチエちゃんが言った。それから体を曲げてストレッチなどをした後に、
「タエちゃん、ありがと」と言ってにっこり笑った。それを見て私も笑って、うん、と無言で頷いた。
「じゃ、コーチ呼んでくるわ。もっともっと練習して強くならないと」と言ってからチエちゃんは練習に戻った。

「もう、なんで教えてくれなかったの」
 タツヒコのお見舞いに行きチエちゃんのことを話すと、タツヒコはとっくにチエちゃんがボクシングを始めたことも知っていて、なんだか勝手に心配して色々気を遣って損をした気分だった。
「そんな怒んなって」
「怒ってない」
「でもチエ、かっこよかったろ」
「うん、かっこよかった」
「日本一になるんだってよ」
「へえー、日本一」
「コーチもさ、チエならなれるって」
「すごいね、チエちゃん」
「俺もさ、早くこの体動かせるようにして、チエの試合見たいんだよ」
 そう言って、タツヒコは目を細めて自分の足を見た。
「見ようよ」
「うん」
「見に行こうよ、一緒に」
 うん、と頷いてタツヒコは笑った。それを見て、私も笑って、数秒の間お互いの顔を見ながら、あとは何も言うことがなくなった。病室を出るときに、多恵子、とタツヒコが呼ばれて振り返ると、
「ありがとな」と首だけこっちに回して、小さく言った。声には出さず頷いて、手を振って外に出た。

 試合中に、リング上で躍動するチエちゃんはかっこよくて、何より綺麗だった。無駄をそぎ落とした筋肉の動き、リズムよく放たれるパンチ、軽やかにリングの中を駆け回るフットワーク、相手のパンチを受けても一切動じないチエちゃんの表情、まなざし、そのどれもが私を魅了してくれた。チエちゃんの試合があると聞けば、私はどこへだって駆けつける。
「おー多恵子」
 と、声がして振り向くと、タツヒコが少し足をひきずりながらゆっくり歩いてきて、私の席の隣に座った。
「はーつかれた」
「おつかれ。順調そうだね、リハビリ」
「チエに負けてられないからな」と言って自分の足をパン、と叩いて膝から下を少し動かす。
「ほら、だいぶ動くようになった」
「うん、動いてる」
「あ、チエ出てきた」と、タツヒコが声を上げリングの方を指差す。集中した表情のチエちゃんが歩いて入場してくる。引き締まった筋肉と鋭いまなざし、いつものチエちゃんだ。きれいで、かっこいい、私のヒーロー。ねえチエちゃん、あなたはだんだんきれいになる。図書館で見つけたあの詩のように。これから先もずっと、ずっときれいになり続ける。私はそれを見ていたい。チエちゃんの闘う姿をずっと見て、応援し続けたい。私はチエちゃん、あなたが私にとっての存在意義。チエちゃんがいてくれたら、きっと私は大丈夫。
「ねえタツヒコ、チエちゃん勝つかな」
「勝つよ。当たり前だろ」
 赤いグローブをつけ、ファイティングポーズをとるチエちゃん。一瞬の緊張。会場から音が消え静寂に包まれる。
 まもなくゴングが鳴る。

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