小説

『恋愛孫子』太田純平(『孫子』)

 それから何日か経った、ある日の夕方。
 ピンポーン。私はもう居留守は使わず、チャイムが鳴ったら素直に出る事に決めていた。
 ドアを開けると、例の少年がいた。私は相変わらずぶっきらぼうに、彼に言った。
「なんだ」
「あれ読んだよ」
「あれって『恋愛孫子』か?」
「うん」
「どうだ。よーく分かったろう。男はな、無謀な恋なんてしちゃいけないんだ」
「どうして逃げなきゃいけないの?」
「なに?」
「僕、あの子に告白したいんだ!」
「いいか。昔の偉い人も言ってるんだ。『戦わずして勝つ。それが最善だ』って」
「そんなのおかしいよ」
「お前のその、好きな女の子の特徴言ってみろ」
「え」
「その子の顔、性格、クラスでの人気度」
「顔は可愛くて、性格は良くて、クラスというか、学校で一番人気で――」
「ほら」
「?」
「そんな子ムリムリ。どーせ告ったってフラれる」
「そんなの分からないだろうッ!」
「お前ちゃんとアレ読んだのか? 書いてあったろう。『勝算があれば戦え。なければ戦うな』って」
「……」
「いいか健太。人の一生において、恋愛というものは極めて深刻なものなんだ。今の世間のように、軽々しく人に「好きだ」なんて口にするな。その「好きだ」という気持ちを大事に大事にしまっておいて、いつかここぞという場面で――」
「イヤだ! そんなの絶対おかしいよ! 僕は戦いたい! 戦って気持ちを伝えたい! 戦わずして勝つなんて、そんなの勝ちじゃない! 負けだよ! ただの卑怯者だ!」
「あたしもそう思うわ」
「!?」
 我々の口論が聞こえたのか、雪野さんが部屋から出て来た。
 私はすかさず「う、うるさくしてすみません」と謝った。
「ううん。私、健太クンから依頼されたんです」
「依頼?」
「これを読んでほしいって」
そう言って雪野さんは、私が編んだ『恋愛孫子』を差し出した。
「!?」
「健太クンにはまだ漢字も多いし、内容が難しかったみたいで。それで私のところに来て、これを読んでほしいって」
「健太、お前、雪野さんに――」
「だってお母さんはダメなんだろう?」
「だからってお前、雪野さんに――バッ、おまッ、バッ」
「この『恋愛孫子』に書いてある事……私はあんまり、共感出来ませんでした。だってこれじゃあまるで『恋愛なんてするな』って書いてあるみたいで――」
「い、いやそのぉ、ゆ、雪野さんみたいに、彼氏がいる人からしたら笑われるでしょうけど、やっぱり、僕みたいな恋愛経験が乏しい人間からすると――」
「彼氏はいません」
「……えッ?」
「私、彼氏なんていません」

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