小説

『恋愛孫子』太田純平(『孫子』)

「だ、だって、たまに、男性の笑い声が――」
「ああ、あれは兄です」
「!?」
「心配してすぐ様子見に来るんです。私、初めての一人暮らしだから――」
「……」
「私、今までずっと実家暮らしだったんです。だけど、家族といるとつい甘えが出ちゃうから、両親の反対押し切って、無理矢理、一人暮らしを始めて――」
「……」
「四月から仕事は決まってるんですけど、まだ貯金も少ないし、親に頼りたくないから、節約のためにあえてここを選んで――だけど家族は、いまだにオートロックのマンションに移れ移れってうるさいんです。それで、両親の仲介役みたいに、しょっちゅう兄が来て――」
「……」
「とにかく私は、健太クンの恋を応援します。やっぱり恋愛において、戦わずして勝つなんて――」
「自分もです」
「え?」
「自分も健太の恋、応援してます。おい健太。お前、いますぐ告って来い」
「えぇ?」
「お前ね、恋愛に長期戦なんてものはないんだよ! 恋はいつだって短期決戦! 恋に大事なのは勢いだ勢い! それと正攻法! 下らない小細工なんかするな!」
「そ、それって『恋愛孫子』に書いてあった事と真逆じゃあ――」
「うるせぇ! 恋に説明書なんてねぇんだよ! 早くその子に告って来い!」
「で、でもぉ」
「いいから行って来い! もしダメだったら俺が慰めてやるよ!」
「わ、分かったよぉ。ぼ、僕、行って来る!」
 慌てて階段を下りて行く健太。その背中を見送る私と雪野さん。図らずも、二人きりになってしまった。
「どうしたんですか?」
「へ?」
「急に、健太クンの恋を後押しして――」
「ああ……そ、そもそも『恋愛孫子』なんてギャグですから」
「ギャグ?」
「健太のやる気を引き出すためのギャグです。ああいうウジウジしたタイプは『どうせお前じゃ無理だ』とか言ったほうが、逆に燃えるんです。それを狙って――」
「健太クンのために、そこまで……」
「い、いやぁ、暇ですから」
「健太クン、上手くいくといいですね」
「えぇ」
 雪野さんは健太の背中を見届けると、部屋に入ろうとした。
「あのぉ」
 振り向く雪野さん。
「ゆ、雪野さん」
「?」
「も、もしよかったら――ぼ、僕と――僕と今度――」

 
 拝啓、孫武様。曹操様。
あなた方の編んだ『孫子』は、残念ながら、恋愛においては全くアテになりませんでした。だって恋愛において「戦わずして勝つ」なんて事、ありえませんからね。
 そうです。私も健太も、戦って勝利したのです。

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