「タンタンタン、タンタンタン、タンタンタンタン、タン、タ、タ、タン」
ガラスの硬質な音の響きは小さな音でも意外によく響く。新婚時代から鍵を無くすとこうして知らせた。
「おーい俺だ。開けてくれよ!」
家の中から何も反応はない。庭に接している隣家の住人も起きてくる気配はなかった。隣家は人の好い老夫婦だ。娘も可愛がってもらい、家族ぐるみで仲良くさせてもらっている。両親が共働きのため娘のためにも大切な隣人だ。できることなら迷惑をかけたくなかった。
今日はどうやら隣人を巻き込むことはなさそうだ。静まり返っている。
妻の怒る顔が目に浮かんだ。どれほど怒られても庭で夜明かしするわけにはいかない。空木はもう一度、窓ガラスを叩いた。
「タンタンタン、タンタンタン、タンタンタンタン、タン、タ、タ、タン」
家の中は何の反応もなかった。
その時ふと、浴室の窓の鍵をかけ忘れることがあることを思いだす。忘れるのはいつも妻だ。カビが発生することを嫌い窓を開けるのだが、閉め忘れる。不用心だと怒るのはいつも空木だったが、この日ばかりは忘れてくれていることを祈った。ちょっと高い位置にある窓に手をかけるために、庭にある大きな石を持ってきて窓の下に置いた。背の高い空木でもギリギリ手が届く位置だ。おそるおそる手を伸ばし浴室の窓に手をかけた。
するすると窓が開いた。だがここからが問題だった。身体を窓枠まで持ち上げなくてはならない。昔から懸垂は得意だったが今日は酔っている。だがべろべろというほどではない。やってできないことはないと考えた。
何回目かの挑戦で、肘が窓枠にとどき一気に身体を枠に乗せることができた。
そのまま頭を下げ、ずるずると重さで下へ落ちていった。
下は浴槽だ。ドスン、バシャンと大騒音を立てながら空木は服ごと浴槽の中に落ちた。これほど騒音を立てても妻は起きてこなかった。気づかない筈はない。相当怒っているのだろう。もしかしたらタクシーに乗っていた女の姿を見たのかもしれない。だがあれは絶対女性ではない。
濡れた服を着替えて居間のソファーに横になった。2階の寝室へ行く勇気がなかった。
翌朝顔に陽があたって目が覚めた。仕事には急げば間に合う時間だ。急いで2階へ上がる。妻はもう出かけたようだ。娘も学校へ行った後だった。急いで着替えて家を飛び出した。
昨夜、終電を逃してまで残業したため、今日はなんとか早めに帰れそうだった。帰り支度をしていると娘からラインが入る。
「ごめん、夏樹んちに居る。残業してきていいよ」
急いで帰る必要がなくなり急に力が抜けてきた。仕事をする気にならない。昨日のタクシーの記憶がよみがえる。明日は休みだ。少し飲んでから帰るとするか。