小説

『GUM』松野志部彦(『貨幣』)

 どういう経緯があってか、先生はある日、鞄ごと私をゴミ捨て場に捨ててしまったのです。
 カラスの鳴き声が外から響いてきます。それに耳を澄ましながら、私は徐々に自分の存在についての記憶を思い出しました。
 そう、私は梅ガム。
 ついに食べられることが叶わなかったお菓子。
 このまま、誰からも忘れられて消えていくんだ。
 だんだんと悲しくなり、私は久しぶりに声を放って泣きました。どなたでもいいから、私を見つけて欲しかった。だって、このままではあんまりではないですか。こんなにも甘い梅の香りと味を備えているのに、誰にも味わってもらうことなく消えていくなんて、生まれた意味がないのも同然です。こんな寂しい思いをするなら、いっそ生まれてこなければよかった。
 暗闇の中でうずくまりながら、私はおうおうと嗚咽し続けていました。

 その時でした。
 私の許へ、光が射し込んできたのは。
 思いがけない出来事に、私はびっくりして頭上を仰ぎました。眩しい朝陽が鞄の底まで燦々と注いでいます。その光を背にして、眉をひそめた男性が鞄の中を覗き込んでいたのです。
「なんもねぇや」
 舌打ち混じりの、低い声でした。壮年の方かもしれません。
「お……、ガムか」
 男性は私を持ち上げると、息つく暇も与えずに私の一張羅である銀紙をはぎ取りました。朝の空気は素肌に沁みるほど冷たくて、今が秋季か初冬であることを思い出させました。
 突然訪れた幸運に、私は身が震えるほど歓喜しました。
 まさか、あの暗い世界から再び出られるなんて!
 私を救い出してくれた殿方は、立派な灰色のお髭を蓄えた、なんだかもじゃもじゃした風体の殿方でした。着ているものはみすぼらしく、長いこと体も清めていないようです。しかし、その時の私には人智を超越した神の御使いのように思えました。異様なお姿ではありますが、私を救ってくださった大恩人様には変わりありません。
 その愛しい殿方は、一糸纏わぬ姿となった私を躊躇いもせず口へ放りました。私はその時になってようやく緊張し始めましたが、後はもうなされるがまま、用意された結末へ身を委ねるしかありませんでした。
 それは、なんとも形容しがたい、とてつもなく鮮烈な体験でした。
 所々欠けた歯に噛み砕かれ、波のようにうねる熱い舌で愛撫される。
 昇りゆく歓喜。
 めくるめく快感。
 陶酔、忘我、絶頂。
 神懸かり的で、世界がひっくり返るような興奮。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10