小説

『あの日の情景』太田純平(『黄金風景』)

「あ、うん」
 ああ。
 苦しい。
 これほど日常会話が苦しいと思った事はついぞない。
 私は彼女の目を直視出来ず、代わりに武田の目を見てフレンドリーに言った。
「お前それより仕事ダイジョブか?」
「あ、やべ」
 武田は放置されたコンテナを見て、仕事に戻ろうとする素振りを見せた。
 私は「その反応を待ってました」とばかりに勢いづいて「ゴメン、俺ちょっと家族待たせてるから行くわ。まぁまた会う機会もあるっしょ」と二人に言った。
 武田夫妻はほぼ同時「ね」「そうだね」と私に同意した。
「じゃ、またな」
 私は一刻も早く彼らの視線から外れようと、調味料の棚の裏へ早足で回った。
 そして視線が遮られると、棚の隙間からこっそりと彼らに目をやった。
 きっと彼らは私が消えた瞬間、堰を切ったように私の悪口を言うに決まっている。
 いや、そうあるべきだと思った。
 すると騒々しい店内の中、微かに、彼らの声が聞こえてきた。
「『家族』だって。やっぱあいつも子供いるんだろうなぁ」
「いるよぉ。だってもう三十一だもん」
「まぁあいつ、中学の頃からモテたもんなぁ」
「そうそう。学校の人気者で」
「仕事なにしてんだろ。訊けばよかった」
「きっと大手のすごいとこだよ。中学ん時から他の人と違ったし、頭の回転速かったもん」
「まぁそうだよなぁ……つかヤベッ、仕事。じゃ、また後で。今夜は遅くなるから」
「うん、分かった。アイネ、ほらパパに『がんばって』って」
「がんばって」
 武田は娘の頭にポンと手を置くと、仕事へ戻った。
 彼女の方は娘と共に、鮮魚コーナーの方へ――。
 ああ――。
 大晦日の昼過ぎ。
 実家の近くの大型スーパーで。
 私は一人、泣いていた。
 人目を気にして『岩塩』を掴み、その栄養成分表示を眺めながら、ポタポタと滴り落ちる涙を袖で拭った。
 海外ドラマの見過ぎか、あるいは、ひねくれた性格だからだろうか。何故か胸に込み上げてくる言葉は「ごめんなさい」ではなく「アイムソーリー」だった。
「アイムソーリー……アイム、ソウ、ソーリー……」
 私は泣きながら、ぶつぶつとそんな事を呟いた。
 私は三十一にもなって、いまだにフリーター。
 恋人はおろか、無論、家庭も持っていない。
 親から貰ったお金で自分の食べたい牛肉を買いに来た、そんな男。

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