小説

『あの日の情景』太田純平(『黄金風景』)

 振り返ると、案の定武田がいた。
 これから補充するのか、精肉を積んだキャスター付きのコンテナと共に来た。
「ほらあれ! 下川!」
「あ、ああ」
 私はさも「今気付きました」という風に目を向けた。
「ちょっと待ってて」
 武田は売り場の片隅にコンテナを置くと、すぐさま下川親子の元へ駆けてゆき、こちらを指さしながら声を掛けた。
 私はいっその事黙って逃げようかと思ったが、人混みと、カゴに入った牛肉と、優柔不断な性格とがそれを邪魔した。
 武田に連れられ、下川親子が来た。
 何に対してか分からないが、私はとりあえず軽く会釈をした。
 私達の仲を取り持ちでもするみたいに、武田が下川を示しながらこう言った。
「武田さん」
「……?」
 正直ポカーンだ。
 武田が、下川の事を「武田さん」といって紹介したのだ。
 意味が全く――。
「!?」
 私はハッとした。
 武田は私の表情の変化に気付くと、まるで「その通りだよ」とでも言いたげに小刻みに頷いた。
「ま、まさか――」
「そ。五年前」
 武田がしれっと言った。
 なんと、この二人は結婚していたのだ!
 私がぎょっとした目で娘さんを見ると、下川――武田文恵が子供に言った。
「ほらアイネ。こんにちはって」
 アイネと呼ばれた娘さんは、恥ずかしそうにお母さんの後ろに隠れながらも「こんにちは」と私に言った。
「こんにちは」
 私の発音は、アイネちゃんと比べて実に硬かった。
 ていうか、なんだこの状況。
 なんだこれは。どうすればいい。どうすれば――。
 武田が私に言った。
「結構みんな知らないんだよね、俺達の事。ほら俺達、フェイスブックとかやってないからさ」
「あ、ああ」
 今度は彼女の方が、私に言った。
「山本君、元気だった?」

1 2 3 4 5 6