小説

『きつね』森な子(『民話:妖狐』)

「あなたは?あなたは帰らないの?」
「私はここに住んでいるんだよ。ここが帰る場所なんだ」
 何か言いたげな少女を無理やり自分の前に座らせて、ヨーコは細い髪を解き手櫛で簡単に梳いて、元々使っていた髪ゴムで結いなおしてやった。
 川で簡単に泥を落として山の出口まで少女を送り届ける。じゃあね、もう夜の山へきてはいけないよ、妖怪が出るからね、と冗談めかして笑ってやると、少女は真っすぐに、
「私、歩。歩く、って書いてあゆむって読むのよ」
 と言った。ああ、そう。とヨーコが言うと、少女はあなたは?ときいてきた。
 妖狐は薄く笑って、いつも人の世へ紛れる時に使う名を名乗った。
「私はヨーコ。漢字は、歩にはまだ難しいだろうからまた今度」

 

 もうきてはいけないと言ったのに歩は懲りずに山へきた。ヨーコのことをすっかり気に入ったようだった。毎日ころころと色んな姿に化けていたヨーコだったが、歩が来るようになってからはもっぱら幼い少女の姿ばかりするようになった。
「もうきてはいけないよって、言ったじゃないか」
「夜の山に、ね」
 歩は時にはランドセルを背負って夕方に、時には何も持たずに朝からやってきた。いつ来るかわからないし、もし自分がいないときにやってきて、山に住む意地の悪いやつらにちょっかいでも出されたら夢見が悪い、と思ってヨーコは祠から動けずにいた。まったくいい迷惑だ、とぼやきながらも歩がくることを決して拒みはしなかった。
 ヨーコはもう何百年も生きている。その間にたくさんの人と関わったが、みんな等しく死んでいった。だから一人の人間と何度も会ったり、深く関わったりすることから避けていた。歩とも、どこかで折り合いをつけなければ、と考えて、明日こそは、明日こそはと思っている間にすっかり懐かれてしまっていた。
「今日も意地悪されたのか」
「うん……」
 歩が学校で誰かに傷つけられてくるたび、前は呆れた奴もいるもんだなあ、くらいにしか思っていなかったヨーコだが、段々腹がたってくるようになった。情が湧くのは良くないことだ、と思いながらも、歩を貶める奴にも、こんなにしょんぼりとしている歩をずっと放っておいている歩の親にも腹がたった。
「よし、わかった。私が行ってこらしめてやろう」
「いいよ。ヨーコ、私より弱そうだし」
「いいや、一度言ってやらないと気が済まない。いつもお前に意地悪するやつらは、どこにいるんだ」
 歩は最後の最後まで渋ったが、ヨーコのかたくなな言い方に折れたのか「……今日は土曜日だから、西公園にいると思う」とぽそっと呟いた。
 俯く歩の手を引いてヨーコは山を飛び出した。公園にたどり着くと何人もの子供がボールを投げて遊んでいたが、歩の姿を見るとさっきまで静かだったのが嘘のように静まり返り、ひそひそと噂話をしだした。

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