焦った僕は、道路脇に自動車を寄せて停車する。ハンドルを持つ手は震えている。汗が噴き出てきても、一定のリズムを刻む着信は鳴りやまない。
「もしもし」
「すいません」落ち着いた男の声だった。「この携帯電話で、最後に電話されたのが、あなたでして。お名前は、タカナシさんでよろしいですか?」
「はい、高梨です」意外なことに、僕は冷静な声を出せていた。「これは一体、どういう状況なんですか」
「私、静岡県警の斎藤というものですが。……この携帯電話、被害者の方が運転していたトラックの助手席に落ちていてですね、ご事情をご存知ないかと」
助手席。やはり、見つかったのか。「被害者、男の方ですか?」
「ああ」警察官は少しくぐもった。「そうですね。あの、中年の男性に刺されて意識不明の重体で。中年の男性は既に逮捕してはいるんですが」
中年の男性。
僕は一瞬声を失う。「逮捕された男性のお名前は?」
「不明です。泣き喚いていてですね」
「もしかして、指も見つかりましたか?」
「……はい」警官の声が震えた。「……その指がどなたのかもご存知ですか?」
中年の男性は、朝霧さんの父親だろう。
朝霧さんは、匂わせただけと言っていた。父親は娘からの電話から『匂い』以上の何かを嗅ぎ取ったのではないか。
きっと父親は朝霧さんからの電話を受けて、彼女がトラック運転手を殺しに行くと勘違いした。運転手と会話したかどうか不明だが、父親は勝手にトラックの中を荒らし、娘の指と携帯電話を見つけた。
娘を殺されたと勘違いした。そして、運転手を刺したのだろう。
朝霧さんは、好きな人に見届けてほしかった、と僕に厄介ごとを押し付けてくれた。だが、もう彼女はこの世にいない。
彼女の思惑から大きく逸れた今、警察が本気で捜査すれば、僕が栃木の山中にいることぐらいすぐに調べがつく。加えて、朝霧さんの遺体が発見されれば、僕とて無関係のままで、逃げ切れないだろう。
大きくため息を吐く。
「実はですね……」
僕は警察官からの問いかけに対し、正直に答えつつ、ゆっくりと穴を懐中電灯で照らしたときのことを思い出す。
穴の底では、朝霧さんの血の気が引いた白すぎる顔だけが浮かんでいた。目は半分開いたままで、彼女が持ち合わせていた憂いや儚さは既に消え失せていた。
首から下の白い肌は、真っ赤な血が飛び散って汚れていて、まるでドレスを着ているようだった。
カタ。
一瞬、物音が聞こえた気がして振り向く。
後部座席には、もう朝霧さんはいない。
静謐な闇が拡がっているだけだった。