小説

『Tonight, Tonight』平大典(『カチカチ山』)

 僕とて荷物は持ってきていない。朝霧さんから渡された懐中電灯だけを手に持っていた。手持無沙汰だと朝霧さんのクーラーボックスを持とうとしたが、サプライズだから、という理由で断られた。
 夜の山中は暗く冷え切っていた。永遠に拡がっていそうな闇の中、一寸の明かりも見えてはこない。
 携帯電話も圏外になっていた。夜行性の動物に襲われても、助けは呼べない。かなり不安だったが、朝霧さんの歩く速度は落ちない。クーラーボックスからは、カタンコトン、という音だけが響いている。
 百メートルほど進んだところで、朝霧さんが立ち止まった。
「ここでいいかな」振り返った朝霧さんはやはり微笑んでいる。
「いや、なんもないっすけど」
「あるよ、あそこ。先月、準備した」
 朝霧さんが指差した先を懐中電灯で照らすと、太い杉木があり、根元には赤黒い土が掘り起こした穴がある。
 人が一人入れそうなほどの。
「なんすか、これ」自分でもわかるほどに声が震えていた。「朝霧さん、ふざけてんすか?」
 意味不明だ。ドッキリかなにかか。
 朝霧さんはすいっと穴の方向へ歩く。 
「作った借金で首が回らないんだよね」
「はい?」
「さっきの話」朝霧さんは、右手に巻いていた包帯を解きはじめる。「実は女の子には、姉がいたんだよね」
「いや……怖い話は」
「あたしには妹がいる」
 一瞬、間が空く。
「じゃあ、さっきの話って、まさか」
「……あたしの妹の話。クソみたいな額の借金だけ残して、死んじゃったんだよね。両親も返済できないから、私が死んで生命保険で払うしか手がないんだよね」
 包帯が取れて朝霧さんの掌が露わになった。
 僕は息を呑んだ。「……朝霧さん、冗談っすよね?」
 小指がなかった。切り落としたのか、平たく赤黒い傷口になっている。
「ただ、死ぬんじゃ、最悪」朝霧さんは淡々と話した。「相手の男に復讐しないと。相手の男は長距離のトラック運転手だから、全国を移動している。栃木県にもよく来る。……指と携帯電話をそいつのトラックの中に隠した」
「……失踪したら、警察がそいつのトラックを捜すってことですか?」
「今朝、お父さんに電話した。相手の男に直談判しに行くって、ちょっと匂わせた。あたしが失踪したら、お父さんが警察にその話をする」
「いや、冗談なら、やめてください」
 朝霧さんは、答える代わりに、クーラーボックスを脇に置く。コトン、という音が響く。

1 2 3 4 5 6 7 8